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羽田憲司の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【297回】

優れた戦術眼と確かな技術を持った守備のマルチロール羽田憲司。

市立船橋高校時代は世代屈指のセンターバックとして高校選手権で優勝を飾る。

U20日本代表ではキャプテンとしてワールドユースを戦っうなど将来を嘱望されたが鹿島アントラーズでは故障が長引き、試合に出場出来ない日々が続いた。

しかし移籍したセレッソ大阪ではレギュラーとしてセンターバックやボランチとしてプレー。キャプテンとして2009年にはJ1昇格に貢献した。

羽田憲司のJリーグ入り前


羽田は1981年に千葉県市川市に生まれた。9歳の時にサッカーを始める。

市川市立妙典中学校卒業後は名門市立船橋高校へ入学。同学年にGK黒河貴矢、FW原竜太がおり、1学年上にはMF西紀寛、1学年下にはDF中澤聡太がいた。

高校時代は2年時に高校総体で優勝を飾ると3年時にはキャプテンとして全国高校サッカー選手権大会へ千葉県代表として出場。1回戦から無失点試合を続け、決勝では松井大輔、田原豊らを擁する鹿児島県代表の鹿児島実業を2-0で下し、市船3度目の優勝を果たした。羽田は大会優秀選手に選出されている。

高校卒業後、鹿島アントラーズへ入団する。

羽田憲司のJリーグ入り後

鹿島アントラーズに入団後、1年目の2000年8月5日2ndステージ第8節横浜F・マリノス戦でJリーグデビュー。この年はU19日本代表にも選出されAFCユース選手権に出場。準優勝を飾った。

2001年5月、試合中に腰椎横突起骨折の怪我を負い全治1ヶ月半と診断されるが、抜群の守備センスが評価されU-20日本代表に選出。羽田はリーダーシップをかわれキャプテンを務めた。トルシエ監督の用いた「フラットスリー」の真ん中を務める羽田は必要不可欠な人材だった。

しかし初戦のオーストラリア戦、左サイドのオーストラリアの選手のクロスが羽田の左足に当たり不運にも絶妙なループシュートとなってオウンゴールとなってしまう。その後日本は続く第2戦でもアンゴラに1-2で敗れ、最後のチェコ戦でようやく3-0で快勝したがグループ最下位となり予選敗退となった。

鹿島に戻りレギュラー奪還に向けて練習に励んでいた2001年の夏、原因不明の足首の痛みで長期戦線離脱を余儀なくされる。羽田はブラジルに渡り手術を受け懸命なリハビリ生活を送る。

2005年5月21日のナビスコカップ・セレッソ大阪戦で実践復帰。実に3年9ヶ月ぶりの公式戦出場となった。しかし岩政大樹大岩剛というJリーグ屈指のセンターバックの牙城を崩すことは出来ず出場機会は少なかった。

2007年セレッソ大阪へレンタル付き移籍。

セレッソでは持ち前のクレバーな守備を生かし最終ラインの中央でプレー。戦術によってはボランチとしてもプレーする。2009年からはキャプテンを務め、香川真司や乾貴士、清武弘嗣、家長昭博など個性溢れる選手たちをまとめた。羽田はキャリアハイとなるリーグ戦50試合に出場を果たしセレッソ大阪のJ1昇格に貢献した。

2010年にはリーグ戦3位となりACL出場権を獲得するもこの年をもってセレッソを退団。

2011年はヴィッセル神戸へ移籍。

守備での貢献が期待されたが故障の影響により2年間で6試合出場にとどまる。

羽田は思うようなプレーが出来なくなり2012年限りで契約満了。31歳でスパイクを脱ぎ現役生活に別れを告げた。

羽田憲司の引退後と現在

羽田は引退後、セレッソ大阪の下部組織のコーチに就任。U18やトップチームのコーチを経て2016年からは鹿島アントラーズのトップチームコーチに就任している。

現役時代、大きな期待を受けて入団した鹿島アントラーズでは思うような活躍が出来なかった。苦難を過ごした7年間だったが、その分指導者として貢献したい気持ちは人一倍強いだろう。

将来はJリーグの監督への意欲をもつ羽田憲司。かつて世代屈指のセンターバックと呼ばれた男は指導者として着実に成長を続けている。

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