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高桑大二朗の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【288回】

身長190センチ、82キロという恵まれた体格を生かした守備範囲の広さと的確なコーチング能力で活躍したGK高桑大二朗。

2000年に鹿島アントラーズでブレイクすると日本代表に選出。同年のアジアカップ・カタール戦では日本のゴールマウスを守った。

鹿島アントラーズを退団後は東京ヴェルディ、ベガルタ仙台、横浜Fマリノス、徳島ヴォルティスを渡り歩く。

高桑は温厚な性格で知られ多くのサポーターから愛された。

高桑大二朗のJリーグ入り前


高桑大二朗は1973年に東京都杉並区荻窪に生まれた。

親の仕事の都合で愛媛県松山市に引っ越した際に、友達の影響でサッカーを始める。ポジションは身体的に恵まれていた為、最初からキーパーだった。

中学校は再び東京に戻り、世田谷区立新星中学校に進学。サッカー部で活躍する。

高校は神奈川県の日本大学高校へ進む。 高校では全国大会出場の経験はなく全国的には無名の存在だったがマリノスの監督であった清水秀彦に見出され、プロ入りすることになる。

高桑大二朗のJリーグ入り後

高桑は1992年にマリノスに入団するが、松永成立が絶対的守護神として君臨しており、出番に恵まれなかった。

その後も2年後輩の川口能活が台頭しレギュラーに抜擢。高桑は故障が続いたこともあり、 マリノスに在籍した4年間は公式戦への出場は叶わなかった。練習では木村和司のフリーキックの練習に連日付き合い、セービングの技術を磨いた。

1996年8月より鹿島アントラーズへレンタル移籍。

鹿島では古川昌明佐藤洋平に次ぐ第3GKの位置づけだったが1997年に鹿島へ完全移籍。1998年に正GKを務めていた佐藤洋平が負傷したことによりレギュラーに抜擢。 1998年5月2日第10節ベルマーレ平塚戦でJリーグ初出場を飾った。入団から7年目の事であった。

その後は鹿島の正GKとして活躍。1999年には日本代表候補に選出される。翌年の2000年に鹿島はJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯を制覇。鹿島はリーグ最少失点の堅守を誇り、DF秋田豊とともにJリーグベストイレブンに選出された。同年10月20日には日本代表として国際Aマッチに初出場。AFCアジアカップ2000グループステージ最終戦のカタール戦にフル出場し、退場者が出ながらも1-1の引き分けに貢献。高桑にとって唯一となる代表キャップを記録した。

その後、試合中の怪我が原因で曽ヶ端準にレギュラーを奪われると出場機会を求め2002年に東京ヴェルディへ移籍。

ヴェルディでは序盤はレギュラーとして出場するも途中から高木義成が起用されるようになり1シーズンで退団。

2003年にはベガルタ仙台へ移籍。

小針清充とし烈なレギュラー争いを繰り広げ、リーグ戦11試合に出場するもこの年ベガルタはJ2へ降格。翌年からはJ2での戦いとなったが高桑はレギュラーの座を射止め、2004年、2005年と正GKとして君臨。2005年シーズンは藤川孝幸GKコーチのもとで、守備範囲の広さにも磨きがかかり、プレーの幅を広げた。

2006年も序盤はレギュラーとして出場していたが、第27節東京ヴェルディ戦でGK高木義成にゴールキックから直接ゴールを決められてしまう。この試合がきっかけとなり再び小針清光が起用されることとなった。 2007年は古巣のマリノスに復帰。しかし2シーズンでリーグ戦1試合のみに留まり退団。

2009年にはJ2の徳島ヴォルティスへ移籍。

徳島ではシーズン前にレギュラーの1番手として期待されるも上野秀章とのポジション争いに敗れ試合出場は無かった。 この年をもって高桑は現役を引退。18年間のプロ生活にピリオドを打った。

高桑大二朗の引退後と現在

高桑は引退後、2010年に横浜Fマリノスの下部組織のGKコーチに就任。 日本協会ナショナルトレセンコーチを経て2016年からはU16日本代表のGKコーチを務めている。

高桑は現役時代、冷静な判断力と安定感をもったGKだった。

その活躍が顕著だったのは1999年から2000年までの鹿島アントラーズ時代だ。1999年に鹿島で佐藤洋平から正GKの座を奪うとその年に日本代表候補に選出。翌年は日本代表として初出場を果たし鹿島では三冠を達成し、ベストイレブンに選出されている。

曽ヶ端準の台頭もあり翌年には正GKの座は譲ってしまったがその後もベガルタ仙台では神懸かりなセーブを連発しJ2時代のベガルタ仙台を支えた。 鹿島アントラーズの三冠達成時の正GKである高桑大二朗。かつて史上初の栄冠を手にした男は現在、未来の日本代表GKの育成に注力している。

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