MF

野々村芳和の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【284回】

冷静な守備能力と高度な戦術眼を持ち、右サイドや中盤の底でプレーした野々村芳和。

慶應義塾大学からジェフ市原へ入団後、攻撃的MFとしてレギュラーを奪取。1997年にはチーム1となるリーグ戦31試合に出場を果たす。

ジェフ退団後はコンサドーレ札幌へ移籍し副将としてJ1昇格に大きく貢献。昇格後は主将としてJ1を戦った。

29歳で惜しまれながら現役を引退した後はサッカー解説者として活躍後、コンサドーレ札幌の代表者を務め、史上初となるJリーガー出身のチェアマンに就任した。

野々村芳和のJリーグ入り前


野々村は1972年に静岡県清水市(現静岡市清水区)に生まれた。小学校1年時からサッカーを始め、地区の選抜チームである清水FCにも所属するなど幼い頃からその実力は高く評価された。

しかし小学校6年時から原因不明の発作に悩まされるようになる。清水市立第四中学校から静岡県立清水東高等学校へと進学後も、その発作は続きプレーに支障が出るほどであった。

清水東高校では1学年上に相馬直樹、1学年下には斎藤俊秀がいる。野々村が高校2年時から2年連続で全国高校サッカー選手権大会に出場。2年時は3回戦で武南高校に0-1で敗れ、3年時は2回戦で水内猛擁する旭高校に0-1で敗れている。

高校卒業後、慶應義塾大学へ進学。20歳頃に初めて心臓病と診断され手術を受けて克服した。大学では1年時からレギュラーとして活躍し1年時に総理大臣杯で3位、3年時に選手権で3位に入る原動力となった。

野々村は大学卒業後の1995年、ジェフユナイテッド市原へ入団する。

野々村芳和のJリーグ入り後

野々村は1995年3月29日1stステージ第4節横浜マリノス戦でJリーグ初出場を果たすと第10節横浜フリューゲルス戦でJリーグ初ゴールをマークした。この年はリーグ戦15試合に出場し1ゴールを記録。

1997年のリーグ戦には、全32試合中31試合に出場するなどチーム1の稼働力を見せ攻守に渡ってジェフを支えた。1998年はリーグ戦23試合に出場。1stステージ第11節のアビスパ福岡戦では2ゴールを決め4-2での勝利に貢献した。

1999年にゲルト・エンゲルスが監督に就任してからは評価を得られず出場機会を減らすとこの年をもって5年在籍したジェフを退団する。

2000年に岡田武史監督から誘いを受け、J2のコンサドーレ札幌へ移籍。

コンサドーレでは加入1年目に副将に就任すると持ち前のリーダーシップで若いチームを牽引。野々村はボランチのポジションで攻守の要としてリーグ戦36試合に出場。札幌のJ2優勝の原動力となった。

2001年はキャプテンとして再びJ1の舞台に戻るも膝の怪我の影響で長期離脱を経験。シーズン終了後に戦力外通告を受け、29歳の若さで現役を引退した。

野々村芳和の引退後と現在

野々村は引退後、サッカー解説者として活躍。

2006年6月、株式会社クラッキを設立し、代表取締役社長としてサッカースクールを各地で展開するなどし2012年からはコンサドーレ札幌の代表者に就任。

2015年4月からは公益社団法人日本プロサッカーリーグの理事に就任するなど精力的に活動をし、2022年に第6代Jリーグチェアマンに就任した。

選手出身のチェアマンとして、いったい何ができるのか。野々村チェアマンがJリーグをどう運営していくのか。それは今後増えていくJリーガー出身のフロント入りにも大きく影響するだろうし、道しるべにもなるであろう。

選手一覧