MF

須藤右介の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第259回】

安定したJリーグでのプレーを打ち切り、サラリーを大幅にダウンしながらも夢を追って南米に戦いの場を移した男がいる。

須藤右介。正確なロングパスを活かした展開力のあるボランチだ。

名古屋グランパスに入団後、横浜FCや松本山雅でプレー。2011年にはキャプテンとして松本山雅のJ2昇格に大きく貢献した選手だ。

カンピオナート・ブラジレイロ・セリエD。所謂ブラジルの4部リーグに加入した須藤右介は言葉や環境の違いに戸惑いながらも異国の地で確かな手応えと大きな経験を手にした。

須藤右介のJリーグ入り前


須藤は1986年に東京都日野市に生まれた。三浦知良選手に憧れ7歳からサッカーを始めた。

ガルーダFC(現潤徳ガルーダFC)や杉野百草SSで経験を積んだのち東京ヴェルディジュニアに所属。

その後は東京ヴェルディジュニアユース、東京ヴェルディユースと昇格した。ユース時代の同期には林陵平がいる。

ユース時代は都並敏史監督の元、ボランチだけでなく恵まれた体格を生かしセンターバックとしてもプレー。塗師亮とのコンビでヴェルディユースのDFを支えた。

2005年トップチームに昇格せず名古屋グランパスエイトに加入。同期には本田圭佑がいた。

須藤右介のJリーグ入り後

加入初年度の2005年J1第9節浦和レッズ戦で65分に中村直志と交代でピッチに上がりJリーグ初出場を果たした。この年ははリーグ戦3試合に出場。

2006年はリーグ戦15試合に出場するもレギュラー獲得までは至らず、2007年は怪我の影響もありリーグ戦4試合出場に留まった。

2008年横浜FCにレンタル移籍。

2009年に完全移籍となり、須藤は展開力のあるボランチとしてレギュラーで活躍するも、横浜FCはリーグ戦は開幕から8試合勝利なしと苦戦が続きリーグ戦16位でシーズンを終える。須藤はこの年を持って横浜FCを退団。

2010年、当時JFLだった松本山雅に移籍。

加入2年目にはキャプテンを任され、主力としてチームのJ2昇格に尽力した。

しかし2012年、昇格したJ2では監督交代の影響もあってか出場試合がリーグ戦2試合と激減。
活躍の場を求めた須藤は2013年、自ら松本山雅との契約を解除しブラジルに渡り、ベルナンブーコ州サルゲイロにあるサルゲイロACに入団。年俸はJリーグ時代の半分だったという。

就労ビザや選手登録の遅れがありながらもブラジルに渡って5ヶ月後にようやく出場資格が与えられる。フィード力に定評のある須藤はセンターバックとしてもプレー。日本の天皇杯にあたるコパ・ド・ブラジルにも出場を果たした。

2014年、1年半のブラジル生活を終え帰国した須藤は、8月にFC岐阜へ加入。リーグ戦2試合に出場する。

2015年にはJ3のSC相模原へ移籍。しかし出場機会に恵まれずこのシーズン限りで引退となった。

須藤右介の引退後と現在

須藤右介は引退後、2016年、名古屋グランパス時代に同期だった本田圭佑がプロデュースするSOLTILO FCのU-18の監督に就任。

2019年からは古巣である松本山雅FCのU-15コーチに就任している。

サッカー選手なら誰もが一度は憧れるである海外でのプレー。安定したJリーグでのプレーを打ち切って何も保障のない南米に向かった須藤右介の選択は決して容易ではなかっただろう。

お金を取るか、ロマンを取るか。プロ選手である以上、お金に拘るのは当然の事であるしロマンもただでは追えない。ロマンを追うのにも金は必要で、金を稼ぐにもロマンは必要だ。

須藤右介は南米への挑戦についてかけがえのないものであったと後に語っている。須藤が南米の地で手にしたものはお金では到底買えないものだったに違いない。

選手一覧