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路木龍次の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第257回】

1996年7月21日。46000人を越す大観衆が見守る中、優勝候補のブラジルと初戦で激突する事になったオリンピック日本代表。

大方の予想通り劣勢状況が続く中、日本は徹底したディフェンスでブラジルの猛攻を防いでいた。

そして後半27分。ゲームが動く。

日本の左サイドバックが山なりのクロスをゴール前に放り込む。処理に入ったDFアウダイールとGKジーダが激突。ボールは誰にも触れられぬままゴールへ転がっていき走り込んだ伊東輝悦が優しくゴールへ押し込んだ。

一見、ラッキーゴールのように見えるがブラジルのセンターバックの背後のスペースを突いた日本の作戦が身を結んだ瞬間だった。

スペースを見逃さずに絶妙なクロスボールをあげたのは左サイドバックの路木龍次。その後、ブラジルのシュートの雨を防ぎきり、殊勲の勝利を手にしたマイアミの奇跡は彼をなくしては語れない。

路木はその後、正確なクロスボールと積極的なオーバーラップを武器に日本代表まで上り詰めていく。

路木龍次のJリーグ入り前


路木は1979年に長崎県長崎市に生まれた。兄に後にサンフレッチェ広島や京都パープルサンガでプレーする路木健がいる。

小学校の時にサッカーを始め、当初は右利きであったが、右足の甲を痛めたため、そこから利き足を左にしている。

長崎市立土井首中学校卒業後、高校サッカーの名門、長崎県立国見高等学校へ進学。同学年に上村崇士、塚本秀樹、長峯宏範、1学年下に三浦淳宏、永井篤志がいた。

高校3年時に背番号8を背負い、全国高校サッカー選手権大会に出場。左サイドバックとしてプレーし国見高校のベスト4進出に貢献。準決勝では四日市中央工業にPK戦の末に敗れている。
インターハイではベスト8、全日本ユース選手権では決勝まで進むも徳島市立高校に敗れた。

国見高校卒業後、路木はサンフレッチェ広島に入団する。同期に須股一男、牧野安正、吉川公二がいた。

路木龍次のJリーグ入り後

サンフレッチェ広島入団後、しばらくは片野坂知宏の控えに甘んじるが、徐々に頭角を現してきく。サンフレッチェ広島が年間チャンピオンをかけて臨んだ1994年のヴェルディ川崎とのチャンピオンシップには2試合とも出場を果たしている。

1995年、監督がバクスターからビムヤンセンに代わるとレギュラーとして起用される。4月26日のベルマーレ平塚戦ではJリーグ初ゴールを記録。この年はリーグ戦44試合に出場、5得点をマークし、左ウイングのピーター・ハウストラとのコンビでチャンスを量産した。

1996年、路木龍次はアトランタ五輪日本代表に選出。左ウイングバックの不動のレギュラーとして起用された。グループリーグ初戦のブラジル戦では左サイドで献身的にアップダウンを繰り返し、ブラジルの猛攻を凌いだ。

0-0で迎えた後半27分、左サイドの路木がブラジルのディフェンスラインとGKの間のスペースを狙い、クロスボールを放り込む。そのボールを追って、FW城彰二がゴール前に走り込んだところ、カバーリングに入ったCBアウダイールとGKジダが激突。こぼれたボールをゴール前に走り込んでいた伊東輝悦が見事押し込みゴールを決めた。日本はこのゴールを守り切り、ジャイアントキリングを起こす。この勝利はマイアミの奇跡と呼ばれ、日本サッカー史に名を残す試合となった。

路木は同年10月に加茂周監督により日本代表にも選出。10月13日プーマカップのチェニジア戦で後半途中から日本代表デビューを果たした。

翌年にも引き続き日本代表に選出され、5月21日の日韓戦では先発出場を果たす。8月13日のブラジル戦にも出場するがこの試合で0-3で敗戦。相馬直樹の台頭もあり、この試合が路木の代表最後の試合となった。

その後もサンフレッチェ広島の主力として活躍を続けるが広島が財政難に陥り、移籍金を得るために1998年に横浜マリノスに移籍。

マリノスでは背番号17を背負う。加入初年度はリーグ戦18試合に出場するが怪我も重なり試合にはあまり出場出来ずにいた。

1999年6月に期限付きで浦和レッドダイヤモンズへ移籍。

レッズでは本職の左サイドだけでなくセンターバックとしてもプレーし対人プレーの強さを発揮した。2000年には完全移籍を果たし浦和のJ2優勝に貢献した。

2001年1st第3節アピスパ福岡戦では4バックの左サイドとして先発出場し福岡の攻撃を完封。491日ぶりにJ1での勝利に貢献した。

その後、浦和のオフト監督の若手への切り替え策で、当時新人だった平川忠亮にポジションを奪われ、浦和を退団。

2003年1月にヴィッセル神戸へ移籍。

だが家庭の事情により1ヶ月で退団。チームに合流してから29日目での退団発表だった。路木は退団発表の前日の練習試合までレギュラー候補としてプレーしていたが、一夜明けて一転自らユニホームを脱いでいる。

同年3月、3ヶ月契約で大分トリニータに加入するも6月に契約満期により退団。リーグ戦の出場はなかった。

その後、Jリーグのクラブへの加入はなく事実上の引退となっている。

路木龍次の引退後と現在

路木龍次は大分トリニータ退団後の動向について、オフィシャルな公表はしていない。

今後何か分かり次第、こちらのサイトでも紹介したいと思う。

路木龍次は現役時代、卓越したボールコントール技術で活躍した左サイドのスペシャリストだった。

デビューしたサンフレッチェでそれまで不動の左サイドバックだった片野坂知宏からポジションを奪取すると、アトランタオリンピック代表に抜擢され同年には日本代表へ選出。ビッグクラブである横浜マリノス、浦和レッズへと移籍を果たすなど一気にスターダムにのし上がった。

相馬直樹の台頭により1998年のフランスワールドカップには出場出来なかったが、路木龍次は当時のJリーグを代表する左サイドバックの1人であったのは間違いない。

日本サッカー史に残るジャイアントキリングであるマイアミの奇跡は今後も語り継がれていくだろう。

劣勢に追い込まれながらも、万に一つのチャンスを見逃さずに絶妙なクロスボールを放った路木龍次の名とともに。

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