MF

三浦淳宏の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第25回】

その強烈な右足で擦りあげるように蹴られるボールは面白いほどゴールマウスに吸い込まれていく。

三浦淳宏がボールをセットすると、たとえそれが通常、ゴールは想像できない距離でも誰もがそのキックに夢を見た。

Jリーグ通算歴代FKゴール数はガンバ大阪の遠藤保仁の16ゴールに次ぐ15ゴール。

今では多くの選手が蹴る無回転シュートだが、その先駆者は間違いなく三浦淳宏だった。

今回は魔法の右足を持つ男、三浦淳宏に迫る。

三浦淳宏のプロ入り前


三浦は1974年に埼玉県に生まれた。

子供のころは野球少年で、ポジションはキャッチャー。

小学校1年生の時に大分県に転居し、サッカーを始めた。

大分市立明野中学校を経て、サッカーの名門国見高校に入学。

背番号10を背負い、攻撃的MFとして活躍した。

松波正信らが出場した第71回高校サッカー全国大会ではキャプテンとして優勝を経験。

国見高校卒業後、青山学院大学に入学。

しかし1994年、大学を中退し、横浜フリューゲルスに入団した。

三浦淳宏のプロでの活躍

加入初年度は出場機会はなかったが2年目から不動のレギュラーとして活躍。

ブラジルトリオとよばれたジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイールや、日本代表山口素弘、前園真聖、楢崎正剛らと共にプレーした。

1995年、三浦は左サイドのアタッカーとしてシーズンを通して51試合に出場。6得点を挙げた。

その後もフリューゲルスの攻撃の要として活躍し、1998年には32試合に出場し10得点を挙げる。

横浜フリューゲルスは残念ながら1998年の天皇杯をもって解散したが、三浦は無敗での有終の美に貢献した。

三浦はフリューゲルス解散後、横浜マリノスに加入。

マリノスには2シーズン在籍し、2000シーズンには1stステージ優勝に貢献した。

2001年には東京ヴェルディに移籍。

背番号6をつけ、Jリーグ開幕戦「東京ダービー」で直接フリーキックを「ブレ球」にて決めて味の素スタジアムでの第1号得点者となった。

東京ヴェルディには2004年まで在籍し、2005年にヴィッセル神戸へ移籍する。

神戸ではキャプテンとしてチームを牽引するも、加入初年度にJ2降格を経験する。

三浦自身は足首の故障や2度の監督交代による自身のポジションの変化などにより思ったような活躍ができなかった。

他チームからのオファーもあったが、三浦はいち早く神戸に残留を決断。

理由は下記のように語っている。

「(J2降格について)自分に責任をすごく感じてたし、(チームを見捨ててJ1チームに移籍することは)このまま男として絶対にできなかった」

そして翌2006年はJ2リーグ46試合に出場し15得点を挙げる活躍を見せ、神戸の1年でのJ1昇格に大きく貢献した。

しかし2007年、接触プレーにより左小指を骨折した三浦は長期で戦列を離れることになる。

戦線復帰が迫っていたが、三浦がなかなか使われないことに対して当時監督だった松田浩氏への批判を行ったとしてクラブ側と対立。謹慎処分を受け、チームを退団する。

2007年途中に当時J1に所属していた横浜FCに移籍するも横浜FCはその年でJ2に降格。

三浦は怪我と闘いながら、左サイドバック、ボランチ、攻撃的MFとしてプレー。

横浜FCでは2010までプレーし36歳で引退した。

三浦淳宏の日本代表での活躍

三浦は1999年のキリンカップペルー戦で日本代表初出場を果たす。

同年のコパアメリカでは直接FKでゴールを決めた。

2000年にはシドニーオリンピックに、楢崎正剛、森岡隆三と共にオーバーエイジ枠で選出され、決勝トーナメント進出に貢献した。

その後もコンスタントに代表によばれるも怪我の影響もあり2002年の日韓ワールドカップ日本代表には選出されなかった。

日本代表監督がトルシエ氏からジーコ氏にかわっても選出されるが2005年のキリンカップのペルー戦が最後の代表でのプレーとなった。

日本代表では25試合に出場し1得点をあげた。

三浦淳宏の引退後と現在

三浦は2010年の引退後、サッカー解説者として活躍。

2018年には、ヴィッセル神戸のスポーツダイレクターに就任した。

三浦のブレ球については時折、テレビで語られることがある。

本人でさえどのような方向にいくのか予測がつかないといわれるブレ玉。

今では本田圭佑や乾貴士など多くの日本代表選手が蹴るようになったが、三浦淳宏ほどの衝撃を与える選手はまだ出てこないように思う。

何年かかるか分からないが、三浦の技術を継承した選手が出てきてほしいと思う。

また胸が熱くなるような予測不能なFKをピッチで観たい。

選手一覧