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青嶋文明の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第206回】

力強いドリブル突破と左足から放たれる強力なシュート力を持ったセンターフォワード、青嶋文明。

清水商業の絶対的エースとして活躍し、選手権優勝を達成。日本ユース代表に選出され翌1986年のAFCユース選手権1次予選に出場した。

Jリーグ開幕後は清水エスパルスに所属。1993年は6試合に出場し3ゴールを決め、1994年はダブルハットトリックを決めるなどサテライトで得点を量産。

サテライトリーグ得点王を獲得し、飛躍が期待されたが厚い選手層もありレギュラー奪還までは至らなかった。

未完の大器といわれた大型FW青嶋文明に迫る。

青嶋文明のプロ入り前


青嶋は1968年に静岡県浜松市に生まれた。

小学4年生から浜松市の飯田サッカースポーツ少年団でサッカーを始める。1つ歳上の武田修宏に強く憧れていたという。

小学校卒業後、浜松市立東部中学校へ入学。中学3年の時、県内の優秀な中学生を対象にした合宿で猛烈にアピール。清水商業の大滝雅良監督の目に留まることとなる。

その甲斐があり名門の清水商業高校へ入学。青嶋の1学年上に真田雅則、江尻篤彦がいた。

青嶋は1年時からレギュラーとして活躍。2年時にはエースストライカーして全国高校サッカー選手権に出場。決勝で四日市中央工業を2-0で破り全国制覇を達成した。

その活躍が認められ、真田雅則と共に日本ユース代表に選出。翌1986年のAFCユース選手権1次予選に出場した。

高校卒業後の1987年に日本サッカーリーグ1部のヤマハ発動機サッカー部に入部。

ブラジル人選手のアンドレやアディウソンの活躍もありなかなか出場機会に恵まれなかったが、入団4年目の1990-1991シーズンはリーグ戦12試合に出場するなど一定の出場機会を得る。

Jリーグ創設を前に地元靜岡の清水FC(清水エスパルス)へ移籍。清水エスパルスでJリーガーとなった。

青嶋文明のプロ入り後

Jリーグ開幕戦となる1993年5月16日の第1節横浜フリューゲルス戦で背番号15をつけベンチ入りを果たすと、後半途中に平岡宏章と代わりJリーグデビューを果たす。

その後もベンチ入りを続け、第6節ヴェルディ川崎戦で途中出場からJリーグ初ゴールをマークした。

第9節の浦和レッズ戦では初となる先発出場を果たし先制ゴールを決める。続く第10節サンフレッチェ広島戦でもエドゥー 、長谷川健太と3トップを形成し2試合連続ゴールを決めるなど好調をキープした。

しかしその後はアタッカーの向島建が起用され、青嶋はサブに回る事になる。

結局このシーズンは6試合に出場し3ゴールを決めるなど高い得点率を見せるが出場機会に恵まれなかった。

翌年も開幕戦からベンチ入りを果たすも、トニーニョの復帰や永島昭浩の加入もありリーグ戦出場は1試合のみに終わる。

サテライトではダブルハットトリックを達成するなど高い得点能力を発揮しサテライトリーグ得点王に輝いた。

1995年も厚い選手層の前に出場機会を掴めずにいた青嶋はJFLの鳥栖フューチャーズへ移籍。

リーグ戦16試合に出場し15ゴールを決め、鳥栖の躍進に大きく貢献した。

1996年シーズン途中に地元である浜松の本田技研に移籍。ロペスとの強力な2トップを形成し、14ゴールを奪い本田技研のJFL優勝に貢献した。

1997年からは背番号9を背負い、点取り屋としてチームを支える。1997年はリーグ戦10ゴール、1998年は6ゴールを決める。

しかし怪我もあり、この年限りで現役を引退した。

青嶋文明の引退後と現在

青嶋は引退後、サッカー指導者となり、浜松開誠館中学の監督を経て現在は浜松開誠館高の監督を務める。

2005年の創部からチームを指揮し14年目で初の全国高校サッカー選手権出場の切符を手に入れた。

強豪校がひしめき合う静岡県予選を勝ち抜くのは至難の業だ。

創部から14年という長い年月をかけて育てたチームが今ようやく一輪の花を咲かせた。

未完の大器と呼ばれ、期待され続けるも大成できなかった青嶋文明。挫折を知るからこそ教えられる言葉がある。

青嶋の挑戦は続いていく。

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