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永島昭浩の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第20回】

Jリーグ創成期のガンバ大阪を支えた永島昭浩。

鬼気迫る表情でボールを受け取ると、ゴールまでの最短距離を狙い、

常にどん欲にゴールを狙った。

点取り屋と呼んだほうがしっくりくるかもしれない。

そんな永島に迫っていく。

永島昭浩のプロ入り前


永島は1964年に兵庫県神戸市に生まれる。

小学4年生からサッカーを始めた。

高校は御影工業高校へ進学。1、2年時には全国高校選手権出場し、注目を集める。3年では兵庫県選抜入りし、島根国体で優勝する活躍を見せる。

高校卒業後の1983年に松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)に入団するも、
最初の3年間はほとんど出場機会を得られなかった。

4年目からポジションを獲得した永島は、シーズンを通して7得点を記録。

入団7年目にはシーズンを通して22試合に出場し15得点を記録した。

1991年元日には松下電器の天皇杯優勝に貢献。

永島は活躍が認められ、日本代表に選出される活躍を見せた。

永島昭浩のプロ入り後

1993年、Jリーグが開幕する。

松下電器はガンバ大阪になり、永島はチームのエースストライカーとしてガンバ大阪を支える。永島は6月の名古屋戦でハットトリックを記録。これはJリーグ日本人選手初のハットトリックとなった。

このシーズンは32試合に出場し12得点を記録するも、ガンバ大阪の成績は低迷した。

永島は翌年、清水エスパルスへ移籍。

開幕戦でゴールをあげるなど活躍し、Jリーグオールスターにも2年連続で選出。このシーズンも28試合に出場し8得点を記録した。

しかし1995年。

永島の生まれ故郷である神戸が震災に合う。

永島の家も阪神淡路大震災により全壊した。

この震災を機に、永島は当時JFLだったヴィッセル神戸へ移籍を決意。

Jリーグの強豪クラブのエースが、下部リーグに移籍したことは大きな話題になった。

移籍初年度、永島は背番号「51」という大きな数字を背負ってプレー。

翌年は28試合に出場し17得点を記録するなど活躍し、ヴィッセル神戸のJリーグ昇格に貢献した。

永島はこの活躍からミスター神戸とよばれた。

その後、Jリーグに復帰したシーズンも32試合に出場し22得点をあげ、得点ランキング3位となる活躍をみせる。

その後、ヴィッセル神戸には2000年まで在籍。

引退するシーズンまで毎年得点を重ねた。

Jリーグで161試合に出場し61得点という記録を残して永島は引退をした。

永島昭浩の引退後と現在

永島は現在、ニュースキャスターとして忙しい毎日を送っている。

そのハンサムな顔つきとユニークなキャラクターでお茶の間の人気者となっている。

ミスター神戸とまでよばれた永島が背負った背番号「13」は、神戸のエースナンバーとされ、永島の後に播戸竜二、大久保嘉人、我那覇和樹とエースストライカーが背負い続けた。

震災を機に、地元を盛り上げようと下部リーグに移籍した永島。

現役晩年の選手なら分かるが、永島はまだ現役バリバリの選手だった。

そして驚くべきところは、その3年後に、Jリーグに復帰したあとも得点を量産したことだ。

生粋の点取り屋はステージを選ばず活躍し続けた。

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