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マスロバルの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第180回】

左足の魔術師と呼ばれた司令塔マスロバル。

セルビアリーグの強豪であるレッドスターで10番を背負っていた実力は本物で、ジェフ市原やアビスパ福岡で長きに渡って活躍した。

味方を生かすアシスト能力、ペナルティエリア内での得点能力を持ち合わせていたが、プレースキックにも定評があり、その左足からは多くのチャンスが生まれた。

左足しか使わない、それは分かっているのに止められない。

マスロバルの左足から繰り出されるパスは芸術的であり常に創造性に溢れていた。

マスロバルのJリーグ入り前


マスロバルは1967年にユーゴスラビアモンテネグロ(現モンテネグロ共和国)のコトルに生まれた。

少年時代からボールテクニックに優れていたマスロバルは、更に卓越した技術を身につける為に足下を強制的に見えなくさせる特製ゴ-グルをつけてプレーするなど、コントロールに特化した練習に励んだ。

1987年に旧ユーゴスラビア1部リーグのFKスパルタク・スボティツァでプロキャリアをスタートさせる。

入団1年目からレギュラーとして活躍し、ルーキーイヤーはリーグ戦14試合に出場し1得点を挙げた。

1989年には同リーグのFKヴェレジュ・モスタルへ移籍。3シーズンプレーし、1992年にセルビアの名門レッドスター・ベオグラード(ツルヴェナ・ズヴェズダ)に移籍した。

レッドスターでは背番号10を背負い、ミラン・ジヴァディヴィッチ監督の元、司令塔として活躍。

1992-1993シーズンはレギュラーとしてセルビアモンテネグロカップ制覇に貢献。1993-1994シーズンはリーグ戦31試合に出場し14得点を挙げた。

しかし1992年から始まったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が長引き、サッカー界にも大きな影響を及ぼす。

同国でプレーしていたマスロバルは戦火を逃れ、1994年7月にJリーグのジェフユナイテッド市原に移籍した。

マスロバルのJリーグ入り後

1994年8月10日NICOSシリーズ第1節ガンバ大阪でJリーグデビューを飾ったマスロバルはいきなりこの試合で初ゴールをマークした。

以降、元ドイツ代表のリトバルスキーとゲームメイクを担い、オッツェ、城彰二という強力な2トップの得点を多くアシストし、NICOSシリーズはリーグ戦15試合に出場し4得点を挙げた。

1995年、リトバルスキーがチームを去った後は背番号10を背負いプレースキックも担った。

1995年はリーグ戦自体52試合開催と試合数が多かったがマスロバルは全試合に出場。

マスロバル自身も16得点を挙げながらも、FWのニュージーランド代表ルーファーや日本代表の城彰二、新村泰彦への効果的なパスを数多く演出した。

1997年からはJリーグが固定背番号制となるが、マスロバルはその初代10番となる。またユーゴスラビア代表に選出され代表通算3試合に出場している。

後半途中から多少運動量が落ち、試合から消える時間帯はあるものの随所で見せる左足の魔法は流石であり1つのプレーでゲームの流れを変える力がマスロバルにはあった。

ジェフでは1998年まで5年間プレーし、1999年にアビスパ福岡へ移籍。

背番号11をつけ、FW山下芳輝、フェルナンドの後ろに位置するトップ下でプレーする。しかしアビスパはリーグ戦順位が14位と低迷し、マスロバル自身もリーグ戦22試合に出場したものの期待された得点は4に留まる。

このシーズンを持ってマスロバルは現役を引退した。

マスロバルの引退後と現在

マスロバルは引退後、モンテネグロ1部リーグのプロクラブであるFKグルバリのオーナーに就任。

その傍らで経営するカフェレストランの名前を”JEF”とするなど日本への思いは忘れていない。

1995年、元ドイツ代表の英雄リトバルスキーや得点王オッツェ退団の穴を埋めたのは間違いなくマスロバルだった。

とにかく徹底的に左足に拘る選手であり、左足での芸術的なフリーキックはもちろん、ミドルシュートやボレーシュートでもワールドクラスのゴールを決めた。

マスロバルが居た時のジェフ市原は強豪とは呼べず、観客動員もJリーグワースト1となるなど苦しい5年間だった。

しかしその苦しいシーズンを司令塔として支え続けたマスロバルは紛れもなくジェフのレジェンドであり、その左足から繰り出された数々の魔法は今後も語り継がれていくだろう。

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