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マイヤーの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第175回】

カズでもラモスでも、木村和司でもディアスでもなかった。

記念すべきJリーグ第1号ゴールはこの男の右足から生まれた。

ヘニー・マイヤー。

1993年、Jリーグ開幕試合となったヴェルディ川崎対横浜マリノス。

前半19分に相手マークを振り切り、ペナルティエリアのすぐ外から放った強烈なシュートは勢いよくゴール右隅に突き刺さる。

日本では無名の存在であったマイヤーが一気にその名を轟かせた瞬間だった。

マイヤーのJリーグ入り前

マイヤーは1962年にオランダ領ギアナ(現スリナム)の首都パラマリボに生まれた。

1983年、マイヤーが21歳の時にオランダ2部リーグのテルスターでデビューを飾ると、いきなり、リーグ戦30試合に出場して20ゴールを決める活躍を見せた。

翌年の1984年にオランダ1部リーグのフォレンダムへ移籍。

フォレンダムでも得点源として存在感を発揮し、リーグ戦9ゴールを決めた。

この活躍を受けて1985-1986シーズンからは同1部のローダJCへ加入。加入1年目は8得点に留まるも、2年目のシーズンはリーグ戦全試合に出場し34試合で19得点を挙げ、ローダJCのシーズン4位に貢献した。

1987年はオランダの強豪でるアヤックスへ移籍。アヤックスでもリーグ戦11ゴールを決め、この年オランダ代表へ初選出。1987年9月9日、親善試合ベルギー戦で67分にアーロン・ヴィンターに代わって途中出場を果たした。

1988年からFCフローニンゲンで5シーズンプレー。

1990-91シーズンにはミルコ・ジュロフスキと共にゴールを量産しクラブを過去最高の3位に導き、マイヤーはオランダ年間最優秀選手賞に輝いた。

1992-1993シーズンもフローニンゲンで好調をキープしていたが、Jリーグ開幕を目前に控えたヴェルディ川崎からオファーを受ける。

リネカーディアスリトバルスキーなど各国の大物がJリーグへの加入を表明する中、マイヤーも島国での新たな挑戦に意欲を見せた。

マイヤーのJリーグ入り後

年俸約4050万円で加入したマイヤーだったが、来日前にアキレス腱を痛めた影響で、チーム練習に合流出来たのはリーグ開幕1週間前の事だった。

2回の練習に参加したのみで連携も言葉もままならない状態だったが、1993年5月15日のJリーグ開幕戦・横浜マリノス戦で先発出場を果たす。

日本中の注目を集めた一戦は国立競技場で約6万人もの観衆が見守る中開催された。

そして前半19分、左サイドのペナルティエリア外側から放ったマイヤーのミドルシュートは豪快にゴールネットに突き刺さった。

このマイヤーのゴールはJリーグ第1号ゴールとして、その後何度もメディアで取り上げられた。

ヴェルディはその試合を含めて開幕2連敗を喫するが、迎えた第3節のサンフレッチェ広島戦で初勝利を挙げる。この試合でも先制ゴールを決めたのはマイヤーだった。

しかしその後は、監督である松木安太郎が進めるヨーロッパ路線と、ラモス瑠偉、加藤久都並敏史等の中心選手が訴えるブラジル路線の対立もありマイヤーは精彩を欠いていく。

練習でも言葉が通じず、ホテルは1人部屋で食事も別だった。

同じオランダ人のMFハンセンはいたものの他の選手とは満足にコミュニケーションが取れず、7月には契約解除を突きつけられた。

僅か11試合に出場2ゴールの成績で元オランダリーグ最優秀選手はJリーグを去ることになった。

マイヤーはヴェルディ退団後、オランダ1部リーグのSCヘーレンフェーン、2部のBVフェーンダムなどでプレー。 フェーンダムでは2部リーグながら1996-1997シーズンに32試合に出場し14ゴールを決めた。

そして1997-1998シーズン終了後に引退を表明した。

マイヤーの引退後と現在

マイヤーは引退後、古巣テルスターでアシスタントコーチを務めるなど母国オランダで指導者の道を歩んでいる。

マイヤーといえば残念ながら「1発屋」のイメージが日本にはあるかもしれない。

特に創世記のJリーグには環境に馴染めずに結果を残すことなくチームを去った外国人選手が大勢いる。

もし当時のヴェルディにそれまでの南米スタイルでいくのか、新たに欧州スタイルを目指すのかの混乱がなければもっとマイヤーは活躍出来たかもしれないし、もしかするとそのチーム事情とは関係なく活躍出来なかったのかもしれない。

すべては後の祭り。想像でしかない。

しかし開幕のあの日。

日本では全く知名度がない外国人選手が豪快に決めたシュートが日本中を感動と興奮の渦に巻き込んだ事は事実である。

今後もマイヤーのJリーグ第1号ゴールは永遠に語り継がれていく。

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