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松原良香の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第138回】

高校を卒業後、大学を中退してウルグアイに渡りプロ選手となってジュビロ磐田に加入した松原良香。

ペナルティエリア内で決定的な仕事をする点取り屋タイプのストライカーで、磐田では1994年にスキラッチに次ぐチーム2位の7得点を挙げた。

アテネオリンピック日本代表にも選ばれた松原良香は海外経験も豊富で、クロアチア1部、スイス1部でもプレーした。

流離のストライカー、松原良香に迫る。

松原良香のプロ入り前


松原は1974年に静岡県浜松市に生まれた。

3歳年上の兄の真也に憧れ、小学校3年生よりサッカーを始める。

中学時代には静岡県選抜、日本ジュニアユースなどに選出されるなど若くしてその将来を嘱望された。

中学3年時には浜松市に本拠地を置くPJMフューチャーズ(後のサガン鳥栖)の練習に参加していた。

中学卒業後、サッカーの名門である東海大一校(現在の東海大静岡翔洋高)に進学すると、U-17日本代表にも選出される。

2年時の高校総体では、斉藤俊秀や田島宏晃擁する清水東と史上初となる静岡県同士の決勝を戦うなど順風満帆のように思えた。

しかし松原は高校3年時の高校サッカー選手権静岡県決勝の静岡学園高戦でやらかしてしまう。

腰を痛めていた松原はチーム劣勢の中で途中出場をしたが、プレーと関係のないところで相手選手を蹴ってしまい出場3分で退場処分となってしまうのだった。

それでも筑波大学サッカー部のキャプテンだった藤田俊哉や、望月重良から誘われ筑波大学進学を考えたが東海大一サッカー部から筑波大に進学した前例がなく、「勉強の嫌いなお前では無理だ」と言われ、松原は諦めることにした。

もうひとつ誘いを受けていた大阪の阪南大学に進学するも、環境に不満を持ち3日で中退。

同学年の伊東輝悦や白井博幸が清水エスパルスに入団し、華々しくデビューしていく中、松原はヤマハ(現:ジュビロ磐田)や本田(現:本田技研工業フットボールクラブ)、などクラブチームへ自らを売り込むもことごとく失敗に終わる。

所属先が決まらず、吉野家でアルバイトでもしようかと考えていた矢先、日本サッカー協会の山本昌邦から海外でやってみないかと提案を受ける。

1996年のアトランタ五輪へ向けて、世界と戦えるU-23のチームつくりを目指していた山本昌邦は松原に対して海外挑戦を強く推奨した。

松原はこの提案を受け、日本人がプレーしていないパラグアイのオリンピア、チリのコロコロ、ウルグアイのナシオナルかペニャロールの中でウルグアイを選択する。

単身ウルグアイへ渡り、名門CAペニャロールでプロ人生をスタートさせ1993年4月から12月まで在籍し、トップチームのひとつ下のカテゴリーに所属した。

そして1年後の1994年、日本に帰国しジュビロ磐田とプロ契約を結ぶ。

松原良香のプロ入り後

1994年にJリーグに参入したジュビロ磐田は日本代表の中山雅史、元ワールドカップ得点王のスキラッチという強力な2トップを擁しており松原はスーパーサブとして起用された。

しかし4月に中山雅史が恥骨結合炎で長期離脱する事になり、チャンスが回ってくるとスタメンで起用されるようになる。

1年目は18試合に出場し、チーム内ではスキラッチに次ぐ7ゴールを記録した。

2年目には15試合と出場試合数を減らすもアトランタ五輪出場を目指す日本代表に選出。

アトランタ五輪最終予選前に、エースストライカー小倉隆史が大怪我で離脱した為、松原には大きな期待がかけられた。

1996年には清水エスパルスへレンタル移籍。

アトランタ五輪本戦出場メンバーにも選出され、初戦のブラジル戦では城彰二に代わり後半41分から途中出場を果たす。

FWながら守備に貢献して、後にマイアミの奇跡と言われた勝利に貢献した。

日本はグループリーグで敗退するも松原はハンガリー戦で先発出場を果たし勝利に貢献するなどアトランタ五輪日本代表の中心選手として活躍した。

1997年にはジェフ市原へレンタル移籍。

背番号9をつけ、リーグ戦25試合に出場し8得点を挙げた。

1998年に磐田に復帰したが、1度も出場機会が訪れないままシーズンを終えた。

1999年はプルヴァHNL(クロアチア1部)のNKリエカに移籍。

しかしビザや移籍証明書発行手続きが遅れ、2ヶ月程度しか出場できなかった。チームメイトには財前宣之がいた。

その後は中々所属先が決まらずにオーストリーのラピド・ウィーンやドイツのハノーファー、イタリアのミラノに渡り契約に向けて動くも契約には至らなかった。

ようやく10月にスイス・スーパーリーグ(スイス1部)のSRドレモンに加わり、年末まで在籍したがここでは無給だったという。

2000年、J2の湘南ベルマーレに加入。

アトランタ五輪でチームメイトだった前園真聖とのコンビで活躍し、リーグ戦でチーム最多の12点を挙げた。

2001年にはウルグアイのCAプログレッソに加入。

その後はアビスパ福岡、ウルグアイのデファンソールでプレー。

2003年、加藤久が監督を務める九州サッカーリーグ所属の沖縄かりゆしFCに加入。

主将を任された松原はかりゆしFCの九州リーグ優勝に貢献した。

2004年11月には全国地域リーグ決勝大会を間近に控えた静岡FCに移籍。

選手兼任監督として2005年までプレー。

静岡FC在籍時は妻の実家である千葉県から静岡まで毎日新幹線で通い、給料は定期代で消えたという。

松原良香の引退後と現在

松原は引退後、2005年にFELICEサッカースクールを開校。

2015年11月、SC相模原の監督に就任し、J3リーグ残り3戦での監督就任で2勝1分けの好成績を残すも2015年シーズン限りで退任している。

現在は自身のスクールを運営し、Jリーグ選手OB会の副会長を務めている。

松原良香のサッカー人生は順風満帆なものではなかったと思う。

松原良香といえばアトランタ五輪代表時代がクローズアップされるが、薄給や無給で戦った海外選手時代や雨や雪が降っても毎日千葉から藤枝まで通いきったという静岡FC時代など幾多の困難を乗り越えてきた。

松原良香はインタビューで「指導者は背中で見せられる存在にならないといけない」と語っている。

現在、多くのスクール生を抱える松原良香。

乗り越えてきたいくつもの壁があるからこそ、そこに見せられる背中があるのだと感じる。

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