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エメルソンの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第114回】

Jリーグ152試合に出場し121得点。

JリーグMVP、得点王、ベストイレブン3回、Jリーグカップ得点王2回。

数いる助っ人外国人の中でもエメルソンを歴代最高の外国人選手に推す声は多い。

爆発的なスピードと圧倒的な得点力を武器にゴールまで一直線に突き進むエメルソンの能力なJリーグで群を抜いており、相手チームからすれば脅威でしかなかった。

しかしエメルソンはその高い能力とは裏腹に、遅刻の常習やラフプレーによるカードの多さ、年齢詐称による逮捕などJリーグきっての問題児としても知られた。

記録にも記憶にも残る選手、エメルソンに迫る。

エメルソンのJリーグ入り前


エメルソンは1978年にブラジルのリオデジャネイロ州の都市であるノヴァ・イグアスに生まれる。(Jリーグ在籍時は1981年生まれとしていたが後に年齢詐称が発覚)

リオのスラム街に生まれ、貧しい家庭に生まれ育ったがサッカーは大好きだった。

地元のアマチュアチームでプレーをしていたが、エメルソンが18歳になってもプロのチームに入る事は出来なかった。

エメルソンの将来を案じた母は偽の身分証明書を作ってエメルソンに渡す。

その身分証には1981年12月生まれと記されており、3年3ヶ月若返ることになる。

そのすぐ後、14歳から15歳の少年で構成される名門サンパウロFCのジュニアユースに入団。

エメルソンは背番号9をつけ、脅威的な得点能力で大会得点王に輝く。

その後ユースに昇格し、U20ブラジル代表にも招集され、1998年に念願のプロ契約を結んでデビュー。

エメルソンは翌年にブラジル全国リーグで8試合に出場して2得点を記録し、「18歳の将来有望な若手」と評価された。

しかしほどなくしてエメルソンが年齢を詐称している事が発覚する。

サンパウロはブラジルサッカー連盟から処罰を受ける前に外国のクラブへエメルソンを売り払うことを決断する。

こうしてエメルソンは日本のJ2リーグに所属するコンサドーレ札幌へ1年のレンタル移籍で加入する事になる。

エメルソンのJリーグ入り後

加入当初のエメルソンはU20代表の経験があること以外には特にクラブチームで輝かしい成績を残していたわけではなく、若干18歳の小柄な外国人選手であるエメルソンに対する期待は大きいとは言えなかった。

しかしリーグ開幕前のキャンプで評価は一変する。

当時の監督である岡田武史や主将である名塚善寛は、エメルソンに対して「今すぐ完全移籍させるべきだ」とコメントを出すなど日が経つごとに無名のブラジル人ストライカーに対しての評価が高まっていった。

迎えたサガン鳥栖との開幕戦ではいきなりハットトリックを達成、続く2戦目のヴァンフォーレ甲府戦でも2得点を挙げるなど活躍。

その後も圧倒的なスピードとボールを奪ったらまずシュートを狙うという徹底したゴールへの貪欲さが功を奏し、リーグ戦34試合に出場し31得点を挙げる。

エメルソンはJ2得点王に輝き、コンサドーレ札幌はJ1昇格を果たす。

圧倒的な成績を残す反面、シーズンを通してイエローカード11枚、レッドカード2枚を受けるなどメンタル面に課題がある事も明るみになった。

また、コンサドーレが優勝を決めると残り試合があるにも関わらずブラジルへ帰国。当初は天皇杯までには戻ってくるという話だったが、戻って来ず結局天皇杯には出場しなかった。

問題児ぶりがネックになったが、能力の高さは折り紙つきのエメルソンをコンサドーレは完全移籍での獲得を狙ったが、高年俸を望むエメルソンと資金面で折り合いがつかず1年限りで退団し、J2の川崎フロンターレが完全移籍で獲得する。

エメルソンはサンパウロ時代のコーチであるピッタ氏を招聘しJ1昇格を目指した。

7月時点でリーグ戦18試合に出場し19得点とやはりJ2では別格の存在感を発揮。

しかしシーズン途中の7月にはコーチのピッタ氏とともにJ1浦和レッズへ移籍した。

浦和レッズにはシーズン途中での加入であったにもかかわらず13試合に出場し7得点を挙げる。

2002年はブラジル人FWトゥットと2トップを組み、24試合に出場し15得点を挙げる。Jリーグベストイレブンに選出され、Jリーグカップの得点王にも輝いた。

このシーズン限りで引退したミスターレッズ福田正博はエメルソンに対して「皆はよくエメのスピードのことをクローズアップするけども、僕が最も凄いと思った彼のプレーは、基本技術の高さ。地味で見えにくい部分だけども、エメは身体のあらゆる部位を駆使して、トラップする技術が優れていたうえに、シュート技術が絶品だった。」と語っている。

2003年はオフト監督の元、快速FW田中達也と2トップを組む。

浦和はリーグ戦は6位に留まったがJリーグカップを制覇。

エメルソンは年間最優秀選手賞を受賞した。優勝チーム以外からの選出は名古屋のストイコビッチに続いて2人目の快挙だった。

2004年はギド・ブッフバルト監督の下で警告も減少し、30試合で27得点を挙げ浦和では福田正博に続く2人目のJリーグ得点王となり、チームの2ndステージ優勝に貢献した。

この頃は日本でのプレーが5シーズン目に入った事もあり圧倒的な能力を持つエメルソンに対して日本への帰化を望む声が出る。

エメルソン自身も帰化に対して前向きなコメントを残していたが、多額の年俸に惹かれ、2005年6月にカタールリーグのアル・サッドへ移籍。日本を離れる事になった。

エメルソンのその後

エメルソンは2006年1月20日、本名・生年月日の異なる2つの出生証明書を悪用していたことが判明しブラジル連邦警察に逮捕された。

その後もカタール代表となる為にカタール国籍を取得したが、エメルソンにはブラジル時代にU20代表の過去があり、また明らかに代表入りのみを目的とした短期間での国籍取得であった為問題視され物議を醸したが、最終的には今後カタール代表でプレーする資格がないことが発表された。

その後はフランスのレンヌでのプレーを経てアル・サッドへ復帰しUAEのアル・アインへ移籍。

2010年からはブラジルへ帰国しプレーを続けていたが2018年に40歳で引退する事になった。

ピッチ内外で豊富な話題を提供してくれたエメルソン。

素行不良であったのは事実だが、Jリーグに絶大なインパクトを残した事もまた事実だ。

様々な問題を抱えた選手であったが、エメルソンのような記録にも記憶にも残るストライカーの全盛期をJリーグで観れた事は幸運である事もまた事実である。

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