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福西崇史の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第5回】

ジュビロ磐田のリベロとして。

日本代表のボランチとして。

輝かしい実績を残した福西崇史。

甘いマスクで女性ファンも多く、ジュビロの黄金期を支えた福西だが、本当に語るべきはその高い戦術理解力だ。

所属したどのチームでも、代表でも福西は監督やチームメイトに重宝され、常にチームの主力であり続けた。

また、非常に高い身体能力で時には信じられないようなパフォーマンスを見せた。

万能プレーヤー福西崇史に迫る。

福西崇史のプロ入り前


福西は1976年に愛媛県に生まれた。小学校時代に器械体操に明け暮れていた。

器械体操は福西が5歳の頃から習い始め、小学6年生まで通う。福西のバランス感覚や柔軟性はこの頃の経験が生きているという。

サッカーに取り組みだしたのは小学4年生の頃。

ただ、サッカーに取り組むのは土日だけ。あくまでもメインは体操。夢はオリンピックに出場し体操で金メダルをとることだった。

そんな福西に転機が訪れたのは中学校でサッカー部に入部し、団体競技の楽しさを覚えたこと。

中学でサッカーの楽しさを知った福西はサッカーの強豪新居浜工業高校へ進学。ポジションはFWだった。

その頃にJリーグが誕生し、夢は金メダリストからJリーガーに変わっていく。

全国大会で結果を出せず、年代別日本代表にも選ばれた事のない福西だったが、

たまたま、対戦校の選手を視察にきていたジュビロのスカウトの目に留まりジュビロ磐田への入団が決まる。

福西崇史のプロ入り後

ジュビロ入団後、当時の監督ハンス・オフト氏からボランチでのプレーを勧められコンバートを決める。

当時のジュビロにはブラジル代表のドゥンガが在籍しており、ポジショニングや判断力の速さを得意としていたドゥンガのプレーに福西は多くを学ぶことになる。

当時のジュビロ磐田は黄金期を迎えており、1997年にはJ1年間優勝。

1998年は1stステージ優勝、ナビスコカップ優勝。

1999年には2度目の年間優勝を決めた。

そのいずれにおいても福西は欠かせない選手としてピッチに君臨し続けた。

2000年代に入ってもジュビロの躍進は止まらない。

2001年は1stステージ優勝。

2002年には、なんと年間成績26勝3敗1分の驚異の成績で前後期優勝の偉業を成し遂げた。

センターハーフの名波浩を中心として、前方にオフェンシブハーフの藤田俊哉と奥大介、後方にディフェンシブハーフの服部年宏と福西崇史が箱型に並ぶサイコロの5の目のような中盤を構成した通称「N-BOX」は圧倒的なパスワークでピッチを占領した。

福西崇史の日本代表での活躍

2002年の日韓W杯、2006年のドイツW杯と2大会連続で出場。

当時の監督であるトルシエ氏、ジーコ氏には貴重な中盤のバランサーとして重宝された。

福西自身は後年、磐田と代表とでは意識的にプレーを変え、ボール奪取やバランスを取る役割をこなしていたと語っている。

その端正な顔立ちから女性ファンからの声援も絶えなかった。

代表では通算64試合に出場し7得点をあげた。

福西崇史の現役晩年と現在

選手生活晩年の2007年はFC東京、2008年は東京ヴェルディでプレー。

東京ヴェルディから契約非更新を告げられた後も、現役続行に意欲を持ち、地元である愛媛県の愛媛FCからオファーを受けたが、条件面での不一致やJ1へのこだわりから 合意には至らず、福西は引退を決める。

引退後は解説者に転身。また、「サッカースクールSKY」での指導を行っている。

解説者として適格な分析と落ち着いた語り口で人気を集めている。

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