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福田正博の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第12回】

ミスターレッズ。

福田正博は浦和レッズ初期の低迷時代からレッズ一筋でプレーし、

天国も地獄も味わった。

背番号「9」を背負い、低迷し続ける浦和を鼓舞し続けた福田は

まさしく浦和レッズの象徴だった。

あのジーコに「日本最高のプレーヤー」とまで言わしめた福田正博。

日本を代表するゲットゴーラー福田正博に迫る。

福田正博のプロ入り前


福田は1966年に神奈川県横浜市緑区で生まれた。

幼少期は野球にあけくれていたが、小学5年の時に横浜市から藤沢市に引っ越し、そこでサッカーと出会う。

メキメキと頭角を現した福田は中学時代には全国中学サッカー大会に出場するほどの実力になった。

高校は神奈川県のサッカーの強豪である相模工業大学付属高校に進学。

福田は1年生からレギュラーとして活躍するが、高校3年間で選手権全国出場は叶わなかった。

中央大学に進学後も1年生からレギュラーとして躍動し、新人王を獲得。

試合への出場はなかったものの大学生ながら日本代表にも選出され、大学4年時には中央大学のキャプテンも務めた。

大学での活躍が注目を集め、日本サッカーリーグの6チームから勧誘を受ける。

当時の日本サッカーリーグはアマチュアであり、働きながらサッカーをすることが前提となっていた中で、

福田は終身雇用が約束されていた三菱重工(現浦和レッズ)に加入する。

福田正博のプロ入り後

日本サッカーリーグ2部に所属していた三菱重工で、福田は加入初年度からレギュラーを獲得。

驚異的な得点能力でリーグ戦26試合に出場、36得点を挙げ、得点王に輝いた。

三菱重工も1年で1部リーグに復帰した。

そして1990年、三菱自動車にチームが移管され、Jリーグ開幕を前に浦和レッドダイヤモンズが誕生した。

福田は浦和とプロ契約を結び、活躍を期待された。

しかし、浦和を不調を極めチームは低迷した。

Jリーグ初年度、浦和レッズは前半戦、後半戦共に最下位に終わった。

浦和レッズは「Jリーグのお荷物」と揶揄され、福田は矢面に立たされ、サポーターから非難を浴びた。

2年目の前半戦も最下位、後半戦はひとつ順位をあげたものの、浦和の低迷は続いた。

転機が訪れたのは3年目の1995年。

ドイツ代表DFブッフバルトの加入によりDFが安定した浦和レッズは躍進する。

浦和は前半戦3位、福田もリーグ戦50試合に出場し32得点を挙げ、日本人初のJリーグ得点王になった。

浦和のエースとして、そして日本代表として活躍した福田正博。

1993年には日本代表としてドーハの悲劇を味わった。

代表ではFWではなく攻撃的MFやときには右ウイングバックとしてプレー。

FWとして起用されないことに不満はあったが、日本の為に戦い続けた。

そして1999年。

浦和レッズのJ1残留がかかったサンフレッチェ広島戦。

途中出場した福田は延長後半1分にVゴールを決めた。

しかし、真っ赤に染まったスタジアムは一瞬の歓喜の後に異様な静けさに包まれた。

ゴールを決めた福田も無表情だった。

延長戦を前に、すでに浦和のJ2降格は決まっていたのだ。

ピッチを歩き、涙を流す福田を、現在の日本代表監督である森保一が慰めるシーンが印象深い。

しかし浦和レッズは1年でJ1に復帰。

福田も怪我と闘いながら2002年まで浦和一筋でプレーした。

そして2002年に浦和から戦力外通告を受けた福田は「浦和以外で戦うイメージがわかない」と言い、赤いユニフォームを脱いだ。

福田正博の引退後と現在

福田は引退後、解説者に転身し、テレビや雑誌でその姿を見る機会は多い。

浦和レッズは現在では多くのタイトルを獲得し、Jリーグの中心チームとして君臨している。弱小チームと罵られていたことがまるで嘘かのように。

福田は現役時代、浦和レッズでタイトルを獲得することはできなかった。

しかし福田が支えたあの時代があるから、今の浦和レッズがあるのだと本気で思う。

福田のあの笑顔も、あの涙も。

いつまでも私たちの心に残り続ける。

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