安定した技術と正確な左足でのクロスが魅力の攻撃的MF、江尻篤彦。
1995年、所属するジェフではリーグ戦13得点を挙げ得点能力の高さも見せた。
ジェフではキャプテンとしてチームを牽引し、外国人、若手、ベテランを繋ぐパイプ役としても活躍。
ジェフで活躍し、後の日本代表となる城彰二のプロ初ゴールも江尻の左サイドからのクロスによるものだった。
江尻篤彦のプロ入り前
静岡県立清水江尻小学校でサッカーを始める。
中学校を卒業後、高校は清水市立商業高校へ進学。
高校3年次には全国高校サッカー選手権大会に清水商業のキャプテンとして出場。
準決勝で黒崎久志擁する宇都宮学園を1-0で下し決勝進出。
決勝では後にジェフ市原でともにプレーする阪倉裕二擁する四日市中央工業を2-0で下し全国制覇を達成。
同じチームには後の日本代表となる真田雅則がいた。
高校を卒業後、江尻は明治大学へ進学。
卒業後の1990年、日本サッカーリーグ1部の古河電工サッカー部(現ジェフ千葉)へ入部。
背番号11をつけ、初年度からレギュラーに定着。リーグ戦15試合に出場した。
1992年、Jリーグ参入に備え古河電工サッカー部はジェフユナイテッド市原に改名。
江尻もジェフとプロ契約を結んだ。
江尻篤彦のプロ入り後
1993年、江尻は主にジェフの左サイドMFとしてレギュラーに定着。
初年度はリーグ戦36試合に出場して4得点を挙げた。
この年、1994年アメリカワールドカップ出場を目指す日本代表に召集。
日本の絶対的左サイドバック都並敏史が足首を亀裂骨折した為、その代役としてオフト監督から声がかかる。
1993年9月のスペイン合宿で、江尻はスペイン2部レアル・ベティスとの練習試合で左サイドバックとして起用されるが本来のポジションではない為、思うようなプレーが出来ず前半のみで交代させられてしまう。
江尻は代表に定着は出来ず、その後も召集されることはなかった。
江尻はその後は一貫してジェフでプレー。
左サイドハーフのみならず、ボランチもこなしジェフのキャプテンとしてチームを支えた。
マスロバルとの連携で、前線のルーファー、城彰二、松原良香などへ効果的なパスを出しアシストを量産した。
1997年、固定番号制になってからは背番号11を背負う。
ジェフで1998年までプレーし、リーグ戦通算193試合に出場、24得点の記録を残して引退をした。
江尻篤彦の引退後と現在
江尻は引退後、1999年からジェフのユースコーチやトップコーチを2004年まで担当。
2005年からはアルビレックス新潟のヘッドコーチ、2007年からはU23日本代表のコーチを務めた。
古巣であるジェフユナイテッド千葉のコーチに就任した後、2020年より東京ヴェルディの強化部長を務めている。
選手時代からJリーグを知りつくす江尻が名門復活に力を注ぐ。