野生的な外見ながら、繊細なボールタッチとキレのあるドリブルで魅力したワイルドプリンス、平松康平。
清水Jr.ユース(中学生年代)の一期生、清水エスパルスユースからの生え抜きという事もありエスパルスサポーターから愛され、ミスターエスパルス澤登正朗の跡を継ぐとまで言われた。
2001年には、当時の日本代表監督であったフィリップ・トルシエにより日本代表候補合宿に招集された。
同年5月に行われたエコパスタジアムのこけら落としとなったジュビロ磐田戦では50000人以上の観衆が詰めかけた中で歴史に残るスタジアム初ゴールをVゴールで決めた。
天性の才能を感じさせるプレーヤー平松康平に迫る。
平松康平のプロ入り前
清水市立清水興津小学校に入学後にサッカーを始め、後に清水区内の有力選手達で構成する清水FCに加入する。
小学生時代は圧倒的なスピードとテクニックで頭角を現し、小学6年生の時に清水FCで全日本少年サッカー大会優勝を果たす。
小学校卒業後に清水市立清水興津中学校へ進学後に清水エスパルスジュニアユースに1期生として加入する。同期には市川大祐、和田雄三、谷川烈がいた。早くから中心選手として活躍し中学3年生の時全日本クラブユース選手権で優勝を経験した。
常葉学園橘高校入学後は清水エスパルスユースへ昇格。第5回Jユースカップ決勝ではサンフレッチェ広島ユース相手に開始5分にヘディングで、27分にドリブルで仕掛けてゴールを決め3-0で勝利。清水ユースの優勝に大きく貢献した。
1998年、平松が18歳の時に市川と共にU-19日本代表に選出。アジアユース選手権を清雲栄純監督の元、小野伸二、稲本潤一、高原直泰、遠藤保仁、小笠原満男ら黄金世代と共にプレーを経験した。日本対中国戦では播戸竜二に代わり後半34分から出場している。
また同年、ユース所属としてトップチームの試合に帯同。リーグ戦5試合に出場している。
1999年、清水エスパルスユースよりトップチームに昇格する。
平松康平のプロ入り後
昇格した1999年はリーグ戦1試合の出場に留まるも2年目から出場機会を掴む。第10節FC東京戦では開始46分に伊東輝悦と交替で途中出場すると86分89分と立て続けにゴールを決め勝利へ導いた。これが平松のプロ初ゴールであった。
2001年、当時の日本代表監督であったフィリップ・トルシエにより日本代表候補合宿に招集された。
また同年5月に完成したホームのエコパスタジアムのこけら落としではジュビロ磐田を相手に熱戦を繰り広げ、延長戦でスタジアム初ゴールをVゴールで決めた。
その後も度々怪我に悩まされながらもコンスタントに出場を続けるが、2005年に練習中に左膝前十字靭帯を損傷、全治6ヶ月の大怪我を負う。その年の天皇杯で試合復帰を果たすがイエローカードを受け退場となった。
エスパルス後期は2列目だけでなくキープ力を生かしボランチとしてもプレーするが2006年はリーグ戦6試合の出場、2007年はリーグ戦での出場はなく、ユース時代から10年間慣れ親しんだ清水エスパルスを去った。
J1チームでのプレーを希望していたが、有力なオファーは届かず2008年にJFLのFC琉球へ入団する。
総監督のフィリップ・トルシエからは変化をもたらす中盤のキーマンとして期待され、自身も背番号10を希望し再起を図るも琉球は18チーム中16位に終わり、平松も11月23日の第16節流経大との一戦での1ゴールのみに留まり1シーズンでチームを退団。
その後は2009年に東海リーグ1部の静岡FC、2010年には藤枝MYFCで自動車整備業を行いながらプレーを続けるも、膝の怪我の影響もあって満足のいくシーズンは送れず、2010年をもって現役を引退した。
平松康平の引退後と現在
平松は引退後、地元静岡県でデイサービスと障害者スポーツのリハビリなどの複合施設を開設。障害者のサポートをする事業を経営している。
平松康平は現役時代、足元の技術と変幻自在なドリブルで観客を魅了し、記録より記憶に残る選手だった。
平松が得意とする右サイド高めの位置でボールをキープし、中に切り込んでくると思いきや平松を追い越して駆け上がってきたサイドバック市川大祐にスルーパス。市川から最前線へ最高のクロスが上がる。平松と市川の右サイドでの連携は多くの得点を生んだ。
膝を怪我してからはプレースタイルも変化し下がり目のポジションでのプレーが増えたが足元の技術は相変わらずであり、ボールを持つと何かやってくれそうな気配が平松には漂っていた。
その風貌とキャラクターもあり多くのエスパルスサポーターに愛された平松康平。彼のセカンドライフに期待したい。