1998年フランスワールドカップ行きの決勝ゴールを決め一躍、時の人となったFW岡野雅行。
高校時代には岡野雅行自らサッカー部を創立し、監督権選手として島根県ベスト4まで進出。
大学時代は朝まで飲み歩いた末に翌日の筑波大学戦で強豪相手に五人抜きのゴールを含む2得点を挙げてJリーグの6クラブから声を掛けられる。
バスケットシューズを履いたまま100メートルを10秒7で駆け抜ける。
このように野人を語る上での伝説は事欠かない。
岡野雅行は技術のある選手ではなかったが、その他を寄せ付けぬ足の速さで一気にスターダムに駆け上がった。
岡野雅行のプロ入り前
サッカーを始めたのは6歳の頃。
人見知りだった岡野は母の勧めもあって地元のスポーツ少年団に入部した。
サッカーを通して友達も出来て、楽しさを覚えた岡野は横浜市立駒林小学校3年の時には将来はプロサッカー選手になるという夢を抱くようになった。
横浜市立日吉台西中学校に進み、サッカー部で活躍。卒業後はブラジル留学を夢見るが家族から反対されてしまう。
親戚の勧めもあり、島根県松江市の全寮制である松江日本大学高校へ進学。
しかしここで岡野は壁に当たってしまう。
サッカー部があると聞いて入学した学校にサッカー部がなかったのだ。
専門の指導者もおらず、サッカーが出来ない環境であったが岡野は自ら理事長に直談判してサッカー部を創立する。
初めは部員が2名しかいない状態だったが、岡野は部員を集め、その後20名程入部した。
しかし部員のほとんどが暴走族上がりや不良といったメンバー。
サッカー経験者はほとんどおらず岡野自身が練習メニューを考え、なんとか苦労して組んだ練習試合でも乱闘騒ぎが起きたり、負ける日々が続き部員のやる気はますまなくなっていった。
そんな中、岡野は部員に訴える。
「下手くそでも、やるっていうのがサッカーだ。これはもうサッカーじゃない。僕はキャプテンを辞めます。サッカーも辞めます。」
泣きながら決意を語った岡野の前に部員は沈黙する。
そしてある先輩が口を開いた。
「悪かった。ちゃんとやろう。みんな、ちゃんとやろうで。」
そこからチームは変わっていく。
練習試合で0-14で負けていたチームが、0-10になり0-8になり、0-4になり、0-1になった。
ついに0-0となった瞬間、部員全員が抱き合って喜んだという。
そして岡野が3年最後の大会である島根県地区大会決勝では強豪である松江商業と対戦。
1点リードされた後半、岡野の得点でなんとか同点に追いつきPK戦にもつれ込む。
岡野は5人目のキッカーとしてPKを蹴るも外して敗れてしまう。
岡野は責任を感じ、部員に頭を下げると部員は全員泣いていた。
そして部員の1人が口を開いた。
「岡野が居なかったら、俺達はサッカーをやっていなかったし、こんな楽しい思いは出来なかった。岡野が外してくれてよかったよ。俺らは外せない。おれらが外して最後だったら誰も納得できない。それ、やばいだろ」
岡野はその言葉を聞いて3年間は無駄ではなかったと感じたという。
松江日本大学高校はその後、立正大学淞南高校となり全国高校サッカー選手権ベスト4に進出する程の強豪校となった。
岡野は高校を卒業後、スポーツ推薦で日本大学へ進学。
しかしサッカー部はサッカー推薦でなければ入れず、岡野は洗濯係として入部を許された。
初めはスコア係や荷物番の役目をこなしていたが、腐らずにサッカーを続けていた岡野は1年生の天皇杯予選でベンチ入りを果たす。
その試合で4年生エースが骨折を負い、ポジションが被る岡野が交代出場をすると得点を重ね、レギュラーに定着する事となった。
大学2年の時には特待生となり、その翌年にはJリーグが開幕する。
しかし岡野はサッカーに取り組む傍ら、イタリアンレストランで朝までアルバイトをこなしたり、朝まで酒を飲む日々を送っていた。
翌日に試合がある事を忘れ、朝まで飲んでいた岡野だったが、飲んでいる途中でその日が天皇杯1回戦の筑波大学戦である事に気づく。
なんとか試合会場に辿り着いた岡野はスタメンで出場し、試合終盤にら自陣ゴール前でボールを持つと、一気に相手ゴールへ向かい、4人を抜き去り、そのままキーパーもかわして、決勝ゴールを決めた。
筑波大学には望月重良、大岩剛、藤田俊哉などが所属しており、その試合はスカウトが大勢観戦していた為、岡野のプレーが目に留まる。
Jリーグ6チームから誘いを受けた中で、浦和レッズからの誘いは「大学を中退してでも来てくれ」という強烈なものだった。
特待生だった岡野は周囲を納得させ、大学を3年で中退し浦和レッズに加入する。
岡野雅行のプロ入り後
浦和レッズに加入した当初プロの技術の高さに驚くも、無名校から日大初のJリーガーとなり、誰も岡野に対して大きな期待を持っていない事が逆に気負うことは何もないと岡野を奮い立たせた。
岡野は小細工をせずに唯一の武器である圧倒的な足の速さを生かしたプレーを心がけた。
浦和レッズ加入1年目のオーストラリアキャンプ。
初の海外という事もあり、舞い上がっていた岡野は集合の成田空港へTシャツに短パン、サングラスで登場。
選手全員がスーツで来る中、岡野の異様さは目立ちGKの土田尚史から「野人」というニックネームがつけられる。
チームに溶け込んだ岡野はシーズン開幕後、1年目から35試合に出場し3得点を挙げる。
長髪をなびかせ、前線を快速で走るスタイルは野人というニックネームとともに岡野を全国区の知名度にさせた。
翌年には加入2年目ながら日本代表へ初選出。
1995年9月20日のパラグアイ代表戦にて代表初出場を果たし、1996年8月25日のウルグアイ代表戦にて初ゴールを記録する。
また1996年にはキャリアハイとなる11ゴールをあげ、同年のJリーグベストイレブンとこの年より新設されたJリーグフェアプレー個人賞を受賞した。
そして1997年、1998 FIFAワールドカップ・アジア予選のアジア第3代表決定戦(イラン代表戦)に延長前半から出場。
GKと1対1など決定機を数度逃すも決勝ゴールデンゴールを決め、日本代表をワールドカップ初出場に導いた。
ワールドカップでは第2戦のクロアチア戦に途中出場を果たす。
この活躍により、岡野にはオランダのアヤックスやポルトガルのスポルディングを、含む4つの海外チームからオファーが舞い込む。
日本代表の中田英寿がセリエAに移籍した事もあり、海外でプレーをしたいと考えていた岡野はアヤックスへ練習参加をする。
スポルディングの会長が来日し、岡野獲得に向けて動き、アヤックスからも破格の条件でオファーが来るも浦和レッズは岡野の放出を拒否し海外移籍は実現しなかった。
その後も主力として活躍するも2000年には浦和レッズがJ2へ降格。
岡野は選手に「1年で戻ろう」と残留するように声をかけクラブへも給料を上げてもらうように働きかけた結果、浦和レッズは1年でJ1へ復帰を果たす。
しかし2001年、チッタ監督の信頼を得られず、5節FC東京戦からはほぼベンチ外に追いやられた。
岡野は出場機会を求めて、ヴィッセル神戸へ移籍する。
当初は海外移籍の失敗や浦和をJ1へ引き上げた事による達成感でモチベーションが下がっていた岡野だったが、浦和とは違い、クラブハウスも仮設で胸スポンサーも付かず、芝も枯れているような環境でサッカーをするうちにサッカー選手として生きていく上で大切な事に気付いたという。
ヴィッセル神戸には三浦知良も所属しており、プロ意識の高い三浦の存在が近くにあった事は非常に大きかったと後年語っている。
2004年にはブッフバルト監督から獲得の要請があり浦和レッズへ復帰。
後半からの出場が多かったが、要所で変化をつけれる貴重なスーパーサブとして本領を発揮。
Jリーグ優勝、天皇杯優勝、アジアチャンピオンズリーグ優勝など様々なタイトルを獲得する。
2008年には10月26日のアルビレックス新潟戦で後半ロスタイムから出場し、史上34人目のJ1通算300試合を達成。
2009年には初となる海外移籍で香港1部リーグのTSWペガサスへ移籍すると2月7日の香港リーグデビュー戦で初ゴールを挙げた。
2009年7月からはJFLのガイナーレ鳥取へ移籍。
チームの顔として牽引し、2011年にはJ2昇格を果たす。
2013年にガイナーレ鳥取はJ2最下位でJ3に降格。岡野もこの年限りで現役を引退した。
岡野雅行の引退後と現在
岡野は引退後、ガイナーレ鳥取のゼネラルマネージャーに就任。
2017年には代表取締役兼任となって忙しい日々を送っている。
岡野は引退後のインタビューで世界のサッカーは技術ではないと話している。
フィジカルが弱かったりスピードがなければいくら技術があっても世界では通用しないと。
「サッカーはスポーツのひとつではあるけれど、プロ選手である以上、エンターテインメントでもあるわけです。見に来てくれる人たちが喜んでくれるプレーをしなければ、プロとは言えないんじゃないか」と。
プロサッカー選手としてお金を貰っている以上は勝負に拘る事はもちろんだが、確かに岡野の話す通り観ている人を楽しませる、驚かせる必要があるように感じる。
近年のJリーグを見ているととにかくシュートを打たない、勝つ為のポゼッションばかりの試合が目立つ。
関係者や熱狂的なサポーターからすれば緊迫したゲーム展開かもしれないが、ライトな層からすれば退屈なゲーム展開と言わざるを得ない。
スタジアムに行き、観客席を見渡すとその「温度差」を垣間見る事がある。
声を枯らしながら応援する人もいれば、欠伸をしてスマートフォンをぼんやりいじる人もいる。手渡されたマッチーデープログラムに熱心に目を通す人もいれば試合途中に電車が混むからと帰る人もいる。
その誰もがスタジアムに足を運んでくれた大切なお客様であり、それぞれの楽しみ方が存在するのは事実だが、試合が面白ければ確実に観る人は増える。
観ていると何かをやってくれそうな、試合から目を離せなくなるような、そんな選手の登場がこの状況を打破できるのかもしれない。
ジョホールで日本に歓喜をもたらせた岡野雅行のように。