センセーショナルなデビューだった。
小松原学は1998年、当時高校生にしてベルマーレ平塚(現・ 湘南ベルマーレ)と契約を交わすとセレッソ大阪戦で17歳と9日で当時のJリーグ公式戦最年少デビューを果たす。
中田英寿、呂比須ワグナー、洪明甫など錚々たる顔ぶれが揃うベルマーレにいながら小松原学は期待された。
翌年は高校生ながら25試合に出場して4得点を挙げる。
力強いドリブル突破から得点を重ねる若きストライカー小松原学は将来を嘱望された1人だ。
小松原学のプロ入り前
小松原は1981年に群馬県に生まれた。
4歳の頃からサッカーを始め、小学校の時に地元のFC邑楽に所属。全日本少年サッカー大会に出場して活躍して注目を集める。
ベスト8をかけて臨んだ試合では後にベルマーレ平塚で共に戦う茂庭照幸擁する神奈川代表のゴールプランダーズに勝利している。
邑楽中学校進学後、ベルマーレ平塚のジュニアユースに所属。地元を離れ、寮生活を始めた。この時、茂庭とチームメイトになる。
そして小松原は中学生ながらU17日本代表に飛び級で選出される。
U世代では高原直泰や小野伸二らともプレー。
平塚学園高校へ進学後、ベルマーレ平塚ユースに昇格。
高校入学間も無く、小松原はユース所属ながらプロの試合にも出場できる2種登録選手となる。
そして1998年4月11日。1stステージ第5節のセレッソ大阪戦で小松原はJリーグデビューを果たす。
これは当時のJリーグ最年少出場記録記録であり、メディアからも注目された。
この年のベルマーレは中田英寿、呂比須ワグナー、洪明甫、小島伸幸、田坂和昭、都並敏史、名塚善寛など錚々たるメンバーが在籍していたが、小松原は17歳ながら3試合の出場を果たした。
しかしこの年を持ってベルマーレ平塚のメインスポンサーであるフジタが撤退することになり、多くの主力選手が退団することになる。
1999年、背番号20をつけた小松原は18歳ながら25試合に出場して4得点を挙げるなど活躍。
しかしベルマーレはJ1リーグ戦は1st・2ndステージ共に最下位(年間4勝)に終わり、J2に降格することとなる。
小松原学のプロ入り後
2000年、高校を卒業した小松原はベルマーレ平塚から改称した湘南ベルマーレで引き続きプレー。
加藤久監督の元、ベルマーレの未来を担うエースとして期待される。
ベルマーレは新たに元日本代表の前園真聖やアトランタオリンピック代表の松原良香を獲得するも、勝ちきれない試合が続き、終盤には8連敗を喫するなど低迷。
小松原自身もスランプに陥り、20試合に出場し、4得点に留まる。
翌年の2001年も怪我で思ったような活躍が出来ず、5試合の出場で無得点に終わりこの年限りで小松原はベルマーレを退団することになる。
2002年からは同じJ2のヴァンフォーレ甲府へ移籍。
しかしここでも試合に出場出来ない日々が続き、8試合の出場に留まり、1得点の成績に終わる。
この年限りで解雇となった小松原は神奈川県リーグのFC湘南大磯へ移籍。
2004年からは地元の群馬県にあるJFLのFCホリコシでプレー。
第1節、第2節で5得点を奪い、復活の兆しを見せるも、この後は得点が取れず23試合に出場、5得点に終わった。
この年のオフに古巣である湘南ベルマーレに練習生として参加するも契約には至らなかった。
翌年、FCホリコシで元FC東京のアマラオと2トップを組み、得点は少ないもののスピードと高いテクニックにより小松原はFCホリコシの攻撃を牽引した。
そして2005年をもって小松原は現役を引退。
24歳での若すぎる引退だった。
小松原学の引退後と現在
小松原は引退後、柔道整復師、鍼灸按摩マッサージ指圧師の資格を取得。
整体師として修行を積んだ小松原は有名アイドルグループやケツメイシのツアーに同行し、施術するほどの人気整体師となった。
現在は鍼灸整骨院を経営する傍ら、少年サッカークラブの運営やJリーグ選手OB会の理事を務めるなど忙しい日々を送っている。
衝撃的なデビューから、小松原のプロサッカー選手としての日々は困難が続いた。
同世代の選手が日の丸をつけて活躍し、海外へ飛び出していく中、小松原は結果が出ずにもがき、苦しんだ。
小松原の職場にはプロ生活を共に歩んだユニフォームが飾られている。
Jリーガーとして輝いた時間は短かったかもしれないが、貴重な経験を生かしセカンドキャリアを一歩ずつ確実に歩んでいる。