琉球が生んだファンタジスタ・喜名哲裕。
類まれなるパスセンスと高度なボールテクニックでチームの司令塔になれる選手。
独特なボールタッチから繰り出されるドリブルは相手にとって脅威であり、自チームにとって決定的なチャンスをもたらす。
守備能力にも優れ、ボランチとして次のプレーを予測した動きで相手の攻撃の芽を摘むことにも長ける。
中盤の底から一蹴で流れを変えるロングパスは必見の価値がある。
喜名哲裕のJリーグ入り前
那覇市立高良小学校に入学後、サッカーを始める。
那覇市立小禄中学校サッカー部で活躍した後、沖縄県立那覇西高等学校へ進学。
高校2年次の時に沖縄県代表として全国選手権に出場するも1回戦で栃木県代表の矢板東に0-2で敗れている。
3年次に出場した選手権では背番号10を背負い、那覇西の司令塔として活躍。初戦で岐阜工をPK戦の末に勝利すると、続く室蘭大谷戦では先制ゴールをマーク。同点に追いつかれるもまたしてもPK戦で勝利をおさめた。
ベスト4入りをかけた守山北戦では0-3で敗れるも、沖縄県勢初のベスト8入りに大きく貢献。喜名哲裕は大会優秀選手に選出された。
高校卒業後、名古屋グランパスエイトに入団。名古屋には沖縄県Jリーガー第1号の石川研が1992年に入団しており、喜納は沖縄県出身第2号のJリーガーとなった。
喜名哲裕のJリーグ入り後
1995年、喜納は高卒ルーキーながら6月17日のサントリーシリーズ第17節ベルマーレ平塚戦でベンチ入りすると、延長戦で岡山哲也と交代してJリーグデビューを果たす。
この試合はトーレスのVゴールで勝利をおさめている。このシーズンはリーグ戦5試合に出場した。
1996年は第1節ベルマーレ平塚戦で開幕スタメンを勝ち取ると、後半開始早々にJリーグ初ゴールを決め4-1での勝利に貢献した。
その後も守備的MFとして出場を続け、フランク・デュリックスと浅野哲也ダブルセンターハーフの後ろ目のポジションで攻守のバランスを取った。
このシーズンのゴールは開幕戦の1得点のみだったが、19歳ながらリーグ戦24試合に出場した。
1997年もリーグ戦26試合に出場するが、膝痛の影響により出場機会が減った。以降2年間はリハビリのため出場機会はなかった。
2000年にはFC東京へ移籍。
背番号23をつけ、主にボランチとして出場。佐藤由紀彦や増田忠俊といったアタッカーへ絶妙なパスを出す司令塔として活躍した。
以降、FC東京には4年間在籍し、2004年に大宮アルディージャへ移籍。
第1節京都サンガ戦からスタメンで出場を続けるも、怪我の影響もありリーグ戦15試合の出場に留めると1年で大宮を戦力外となった。
2005年はアビスパ福岡で1年間プレーし、2006年は東京ヴェルディへ移籍。
ヴェルディでは経験豊富なベテランとして、ラモス瑠偉監督の元、J1昇格を目指して戦うも毎試合スタメンが変わる不安定な試合が続き、最終順位は7位となり昇格は果たせず、喜納自身も1年でチームを去ることになった。
2007年はJFLのロッソ熊本(現ロアッソ熊本)へ移籍。
途中出場が多かったが、試合を落ち着かせることの出来るベテランとして貴重な役目を果たし、熊本のJ2昇格に貢献。以降3年間熊本でプレーした。
2010年からは地元に帰り、九州リーグの海邦銀行サッカークラブでプレー。プレーヤーとして活躍する傍ら、将来を見据えてB級ライセンスを取得した。
2011年、惜しまれつつ現役を引退した。
喜名哲裕の引退後と現在
喜名は引退後、沖縄県与那原町を拠点に活動しているジュニアサッカーチーム「Wウイング沖縄FC」の指導者となる。
その後、古巣の海邦銀行SCでコーチを務め、FC琉球にて監督を務めた。喜納は沖縄県出身者としては初のJリーグ監督となった。
現在はFC琉球アカデミーアドバイザーを務めている。
選手が地元で選手生活を終え、地元で指導者となるという喜納のようなケースはサッカー選手にとって理想の形だと思う。
沖縄県出身のJリーガーは、喜納の後に我那覇和樹、赤嶺真吾、比嘉祐介など多くの選手がJリーグでプレーした。
現在も、田口泰士や知念慶などの選手が活躍している。
喜納は選手権で沖縄県勢初のベスト8を達成し、高卒でJリーグ入りした初の選手であり、沖縄県人のプロサッカーの歴史を語るうえで欠かせない、まさに沖縄サッカー界のレジェンドである。