あの神様ジーコの後継者といわれた男、吉田康弘。
吉田はその卓越したサッカーセンスと正確なパスを武器に41歳まで現役を続け、Jリーグ通算311試合を戦い抜いた。
派手さはないが、「止める、運ぶ、蹴る」という基本スキルが高い選手で、その高い戦術理解能力から在籍した様々なチームで重宝された。
主にボランチとして出場し、守備時はいち早くスペースを潰し、攻撃時は確実に周りへ散らしていく。
職人的プレーヤー吉田康弘に迫る。
吉田康弘のプロ入り前
広島市立大河小学校に進み、元日本代表の木村和司などを輩出した広島大河フットボールクラブでサッカーを学ぶ。
高校は静岡県の東海大第一高校に進学。
チームメイトには澤登正朗やサントスアデミール、大嶽直人などがいた。
高校2年次に全国高校サッカー選手権に出場し、決勝で長崎県代表の国見高校を下し全国制覇を達成。
東海大第一は初出場にして、全試合無失点での優勝という史上初の快挙を成し遂げた。
高校3年次にも2年連続で全国大会に出場。
決勝はまたもや国見高校だったが、0-1で敗れた。
吉田は高校卒業後、明治大学へ進学。
Jリーグ開幕前の1992年に大学を卒業し、鹿島アントラーズへ加入する。
吉田康弘のプロ入り後
吉田はJリーグ初年度、ルーキーながら13試合に出場し2得点を記録。
中盤にはジーコやサントス、本田泰人など実力者が多く、出場機会は限られたが結果を残した。
しかし2年目の出場機会は9試合に留まり、出場機会を求めて清水エスパルスへ移籍。
澤登正朗と再度チームメイトとなり、33試合に出場したが1シーズン限りで退団し、地元の、サンフレッチェ広島へ移籍。
背番号8を背負い、右サイドハーフとしてレギュラーを掴むと攻守を繋ぐバランサーとして活躍した。
広島には3シーズン在籍し、再度エスパルスへ移籍。
長年の夢であった海外移籍を試み、ポルトガルやブラジルのクラブと交渉するも移籍は叶わなかった。
吉田はエスパルスで不動のボランチとして君臨。
ミスの少ない安定したプレーでエスパルスを支えた。
エスパルスには2000年から2005年まで在籍し、77試合に出場。2得点を記録。
2006年からは当時東海リーグ1部だったFC岐阜へ移籍した。
その後2009年には岐阜県1部リーグのFCオリベ多治見で、2009年途中から2010年まで当時静岡県1部の藤枝MYFCでプレー。
2010年をもって41歳で現役を引退した。
吉田康弘の引退後と現在
吉田は引退後2011年からJFLの東京武蔵野シティFCのコーチに就任し、2013年から2017年まで監督を務めた。
現在はサッカースクール「COACH ASSIST」の代表としてジュニア世代の育成をメインに行なっている。
ジーコの後継者とよばれた男は、その確かな技術を未来の世代へ継承していく。