名古屋グランパスの初代正守護神、伊藤裕二。
安定したキャッチングと的確なポジショニングで長きに渡ってゴールマウスを守り続けた。
PK戦にも強く、1993年の横浜マリノスとの最悪なピッチコンディションの中行われたPK戦や、1995年の浦和レッズと14人ずつが蹴り合う壮絶なPK戦ではいずれもGKとして勝利を手繰り寄せた。
またコーチングにも定評があった伊藤裕二はキャプテンも務め、名古屋グランパスの選手としては初となるリーグ戦全試合出場を果たした。
名古屋グランパスの正守護神と呼べる選手は長い歴史の中でも楢崎正剛と伊藤裕二だけである。
伊藤裕二のJリーグ入り前
小学校からサッカーを始め、中学卒業後、四日市工業高校へ進学。
三重県には四日市中央工業がある為、伊藤の進学した四日市工業は全国高校サッカー選手権への出場は叶わなかった。
伊藤が卒業後の1985年に四日市工業は選手権出場を遂げた。
高校卒業後の1984年にヤンマーディーゼルサッカー部(現セレッソ大阪)へ加入。
ヤンマーではしばらく出場機会に恵まれなかったものの、入団6年目の1989-1990シーズンから正GKの座を射止める。
1990-1991シーズンは正GKとしてリーグ戦22試合に出場するもヤンマーは年間順位11位に沈み2部リーグに降格した。
1991-1992シーズンは2部リーグながら伊藤は全試合に出場し、ヤンマーの3位躍進に貢献。伊藤はベストイレブンに選出された。
ヤンマーはJリーグ設立の際に候補として名乗りを挙げたもののホームタウンの問題から落選した為、1992年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に参加する事になった。
Jリーグでのプレーを希望していた伊藤は1992年に名古屋グランパスエイトへ移籍。
しかし名古屋グランパスエイトには同時期にオランダリーグやJSL1部のマツダSCで実績のあるGKディド・ハーフナーが加入。
伊藤とディドは熾烈なGK争いを演じる事になる。
伊藤裕二のJリーグ入り後
名古屋加入の1992年はディドが起用され出場機会に恵まれなかったものの、1993年Jリーグ開幕前に正GKに抜擢される。
1993年、Jリーグ開幕戦の鹿島アントラーズ戦では先発出場を果たすが、ジーコのハットトリックやアルシンドの2得点で0-5の大敗を喫してしまう。
その後も1994年まではディドと併用される形で出場を続けたが、1994年をもってディドがジュビロ磐田へ移籍。
1995年からは名古屋の守護神としてゴールマウスを守った。
伊藤といえばPK職人と言われるほどPK戦では無類の強さを発揮した。
1995年の第4節浦和レッズ戦では両チーム無得点のまま延長戦でも決着がつかずJリーグ史上最長となるPK戦となった。
伊藤と浦和のGK土田尚史の壮絶な戦いとなりキッカーは14人目まで突入。
最後はブッフバルトのシュートを伊藤が止めて試合に決着をつけた。
1997年にはファン投票でオールスター戦にも出場するなど知名度も全国区となった。
1999年、横浜フリューゲルスから楢崎正剛が加入。出場機会が減少し、2000年にJ2の湘南ベルマーレへ移籍を果たす。
湘南では経験豊富な最年長GKとして3シーズンに渡り活躍。
正GKとして3年間でリーグ戦79試合に出場したが、2002年シーズンをもって現役を引退した。
伊藤裕二の引退後と現在
伊藤裕二は引退後、名古屋グランパスに指導者として復帰。
ユースからトップチームまでのGKコーチを歴任した。
その後はナショナルトレセン、U17日本代表GKコーチなどを務め、2014年2月、中部大学第一高等学校(愛知県日進市)からの要請に応じ、事務職員として勤務する傍ら、サッカー部監督に就任している。
伊藤裕二が名古屋に在籍していた初期はなかなか勝ち星に恵まれず、苦しいシーズンが続いた。
伊藤自身、Jリーグで1番印象に残っている試合はJリーグ開幕試合となった1993年の鹿島アントラーズ戦で0-5で敗れた試合だと語っている。
そんな中でもキャプテンとしてチームをまとめた伊藤はその後の名古屋グランパスのリーグ戦での躍進、初となる天皇杯優勝に貢献していく。
現在、名古屋グランパスは常に優勝候補にあげられる程の強豪チームへと変貌を遂げている。
目立つタイプの選手ではなかったが、今日の名古屋グランパスがあるのは苦しい時期を支え続けた伊藤のような選手がいたからである事を忘れてはならない。