久保竜彦。
日本代表の歴代センターフォワードにおいて、この男を抜きには語れない。
その類まれなる身体能力の高さから繰り広げられた数々のゴールは、時間が経った今もなお、我々の記憶に残り続ける。
人は彼をこう呼んだ。
「ドラゴン久保」と。
久保竜彦のプロ入り前
意外にも久保のスポーツ遍歴はサッカーではなく野球から始まる。
久保竜彦は幼いころ、ショートやサードを守る野球少年だった。
読売ジャイアンツのファンで、篠塚和典選手に憧れていた。
(後にサンフレッチェ広島で共にプレーをするアジアの大砲と呼ばれた高木琢也氏(現大宮アルディージャ監督)も幼少期は野球少年だった。)
久保は小学3年生の時、小指を骨折してしまったことが転機となり、グラブをはめられないことから、野球を辞め本格的にのめり込んでいく。
小学校4年生の時にサッカーに本格的に取り組み始める。
1992年に筑陽学園高校へ入学。高校当時のポジションは左MFだった。
しかし筑陽学園高校は高校選手権福岡大会で敗退し、全国全国大会への出場は叶わなかった。
久保竜彦のプロ入り後
全国的には無名の選手だったが、サンフレッチェ広島に入団する。
加入1年目に潜在能力の高さを評価され、FWへコンバートされる。
2年目、当時の監督ビム・ヤンセン氏はエースFWの高木琢也の控えか、またはトップ下で久保をプレーさせた。
高木が移籍した1998年。久保の才能が開花する。
リーグ戦32試合に出場し12得点をあげた。
当時の日本代表監督であるフィリップ・トルシエ氏は久保の能力を高く評価し、この年に日本代表へ初招集。
翌年からの1999年、2000年、2001年も2桁得点をマークし、サンフレッチェにおいても日本代表においても貴重な点取り屋として名を馳せる。
しかし、怪我がちだったこともあり2002年の日韓ワールドカップは落選してしまう。またこの年サンフレッチェ広島はJ2への降格。久保は移籍を決意する。
久保竜彦のマリノスへの移籍後
久保竜彦を獲得した横浜Fマリノスは年間優勝を達成。
久保も日本年間最優秀選手賞受賞した。
ジーコ氏が監督に就任した日本代表にも定着した。
2004年4月、ネドヴェド(当時ユヴェントス)ようする世界ランク9位のチェコと対戦した時に放った左足での豪快なゴールは語り草になっている。
しかしこの頃から久保の身体は悲鳴をあげる。
全身をバネのように使い身体を捻じ曲げて放つ数々のプレーに腰と足首が悪化し始める。
代表ではジーコ監督就任後、通算18試合出場でチーム最多の11ゴールという結果を残したものの、怪我が原因でW杯本大会の代表メンバー落選を2大会連続で味わった。
久保竜彦の横浜FCへの移籍
2007年には当時J1へ昇格したばかりの横浜FCへ移籍。
浦和レッズとの開幕戦で決めた超ロングシュートに、真っ赤に染まった埼玉スタジアムは一瞬静まり、大きなどよめきが起こった。
その後に行った「ひょっとこダンス」も当時話題になった。
しかし、その後は慢性的な腰の痛みが再発し、ノーゴール。横浜FCでは8試合のみの出場に留まり、ゴールも開幕戦での1発のみとなった。
その後久保は古巣であるサンフレッチェ、当時JFLだったツェーゲン金沢、広島県社会人サッカーリーグ1部に所属する廿日市FCと渡り歩き、36歳で引退した。
久保竜彦の引退後と現在
その高い身体能力から繰り広げられるスーパープレーに多くの国民が沸いた。
久保竜彦はワールドカップに出場できなかった。
にもかかわらず、久保竜彦を日本歴代最高のセンターフォワードとしてあげる者は多い。
その人並み外れた跳躍力と、スピード、強さ、しなやかさ。
どれをとっても規格外だった。
また、異彩を放つ坊主頭に髭という外見と、インタビュー泣かせともいわれた寡黙なスタイルも、久保を象徴する要素だ。
現在久保は、サッカースクールでの指導やサッカー関係のイベント出演をしている。
また久保竜彦のようなスケールの大きい、見ていてワクワクするFWが出てくることを期待してやまない。