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一木太郎の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第357回】

1993年、日本で開催されたU−17世界選手権。

中田英寿、宮本恒靖、松田直樹、戸田和幸など、後の日本代表となる選手が多く羽ばたいた記念すべき大会だ。

その中でボランチの一木太郎は優れた状況判断と、正確なパスで若き日本チームを支えた。

10番の財前宣之、11番の中田英寿を後ろで支える8番一木太郎。

攻守のつなぎ役として献身的なプレーを披露し日本のベスト8進出の原動力となった。

一木太郎のJリーグ入り前

一木は1976年に東京都八王子市に生まれた。

小学5年生の頃、読売クラブ(現東京ヴェルディ)のジュニアチームに入団する。

高校はサッカーの名門である桐蔭学園に進むも、読売ユースでサッカーを続ける道を選択する。

読売ユースの同期には、菅原智薮田光教、財前宣之、斉藤乙らがいた。

読売ユース時代は2年連続でJユースカップ優勝、日本クラブユース選手権優勝と輝かしい成績をおさめる。

一木は読売の攻撃を支えるボランチとしてプレーした。

高校2年次に、小嶺忠敏監督率いるU−17日本代表に選出。

日本で開催されたU−17世界選手権に背番号8を背負ってボランチとして出場。
この大会にはトッティ(イタリア)やブッフォン(イタリア)、カヌ(ナイジェリア)など後の世界的スターも出場している。

また、この大会ではスローインではなくキックインを試験的に導入されたことでも話題となった。キックインで再開される際、オフサイドは適用とならないため、身長193センチの船越がターゲットマンとなり、ロングボールを入れる戦術が取られた。

初戦のガーナ戦では中田英寿、財前宣之の後ろでボランチとしてプレー。0-1で敗れるも献身的なプレーでチームを支えた。

続くイタリア戦、メキシコ戦にもフル出場しグループリーグに突破に貢献。
しかし準々決勝で優勝候補のナイジェリアに敗れた。ナイジェリアはウィルソン・オルマの活躍で優勝を果たしている。

帰国後、ヘルニアの状態が悪化し、高校3年次はサッカーが出来ずリハビリに費やすことになる。

1995年、一木はヴェルディユースからヴェルディ川崎へ昇格しプロ契約を結んだ。

一木太郎のJリーグ入り後

トップ昇格を果たした一木だったが、高校3年次に発症したヘルニアの影響で、昇格1年目はリハビリと大学進学を見据えて予備校に通う毎日だった。

入団2年目、腰の調子がよくなってきたためサテライトの試合に出場するようになる。またこの年中央大学商学部へ進学を果たす。

入団3年目、このシーズンもトップチームでの出場機会はなく戦力外通告を受ける。

その後、中央大学のサッカー部でプレーし、大学卒業後にソニーへ入社。JFLのソニー仙台で企業選手としてプレーを続けた。

ソニーでは背番号3を背負い、本職のボランチやストッパーを務めた。

2005年、6年間プレーした後、29歳で現役を引退。社業に専念することになる。

一木太郎の引退後と現在

一木は2005年、29歳で現役を引退後、ソニーファシリティマネジメント株式会社で勤務をしている。

現在はサッカーから離れ、企業の一員としてキャリアを築いている。

残念ながら一木はヘルニアのためにサッカー選手として大成することはなかった。

Jリーグが開幕し、まさにこれから日本のフットボーラーが世界に羽ばたいていくその一番最初の入り口。それが1993年のU−17世界選手権だったように思う。

この大会には華のある選手が多く出場したが、まだ発展途上の日本チームがベスト8まで進めたのは、一木のように派手さはなくとも献身的なプレーでチームのために戦うことができる選手がいたからだと感じる。

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