卓越したゲームメイク能力と精度の高いプレースキックを持つMFジョルジーニョ。
1990年から名古屋グランパスの前身であるトヨタ自動車サッカー部に所属。創成期の名古屋グランパスの司令塔として活躍した。
ブラジル代表として16試合に出場したキャリアを持ち、1983年のコパ・アメリカを戦うセレソンの司令塔としてプレーした。
長年在籍したSEパルメイラスではリーグ戦、カップ戦など合わせて373試合(160勝131引き分け82敗)に出場。そこでジョルジーニョは95得点を挙げ、アイドル級の人気を誇った。
派手さはないがミスの少ないクラシカルなゲームメーカー、ジョルジーニョに迫る。
ジョルジーニョ(名古屋)のJリーグ入り前
ジョルジーニョは1959年にブラジルサンパウロ州マリーリアに生まれた。
1976年、ジョルジーニョが17歳の時に地元のプロチームであるマリーリアACと契約しキャリアをスタートさせた。
1979年にブラジル1部リーグに所属するパルメイラスに移籍。
加入1年目にリーグ戦5試合に出場し2得点を挙げると2年目からは主力として活躍。リーグ戦17試合に出場し5得点を挙げた。
ジョルジーニョはオリンピックブラジル代表に選出され、5試合に出場、1得点を挙げている。
1983年にはブラジル代表に選出。ジーコやチッタらと共に中盤を支配し決勝に進出。ウルグアイとの決勝2戦目ではジョルジーニョが貴重な先制点を挙げるも後半に追いつかれ、1戦目に0-2で敗れていた事もあり準優勝となった。南米大陸チャンピオンを決めるこの2戦目には95000人もの観客が詰めかけている。
その後、ジョルジーニョは1987年にコリンチャンスへ移籍。翌年にはグアラニへと移籍しリーグ戦21試合に出場し3ゴールをマーク。
1989年には名門サントスFCと契約し、1シーズンプレー。
1990年には2部リーグのECキンゼ・デ・ノヴェンブロと契約するが日本のトヨタ自動車サッカー部からオファーを受けて来日。
トヨタでは司令塔のポジションを任されると、正確なパスでチームに貢献。ジョルジーニョはアシストランキング3位に入る活躍を見せ、トヨタのメンバーとしてはただ1人ベストイレブンに選出された。
しかし翌年の1921年シーズンはトヨタは大きく成績を下げ年間順位12チーム中、最下位に終わる。しかしジョルジーニョは孤軍奮闘の活躍を見せトヨタのシーズン全得点24得点のうち12アシストを記録。アシスト王と2シーズン連続でベストイレブンに輝いた。
1992年、Jリーグ化の為にトヨタ自動車サッカー部は名古屋グランパスエイトへ改称。ジョルジーニョは引き続き名古屋グランパスエイトでのプレーを選択した。
ジョルジーニョ(名古屋)のJリーグ入り後
1993年5月16日の第1節鹿島アントラーズ戦でJリーグデビューを果たすもののジーコやアルシンドの活躍により0-5で大敗。
この年、名古屋は元イングランド代表のリネカーを獲得。元ブラジル代表のジョルジーニョとのコンビネーションが期待されたがなかなか結果を出せずにいた。
リネカーの不発もありこの年名古屋は年間順位10チーム中9位に沈むものの、ジョルジーニョはリーグ戦27試合に出場し9得点を挙げる。この年の天皇杯でのガンバ大阪戦ではサイドネットに突き刺さる芸術的なフリーキックを決め、名古屋のベスト16入りに貢献した。
1994年も名古屋の司令塔として活躍。ジョルジーニョは既に34歳となっていたが卓越した技術は衰える事はなく、多くの得点をアシストした。
サントリーシリーズ第5節の浦和レッズ戦では2得点を挙げ7-2での勝利に貢献。現役ブラジル代表FWエリベウトンと息の合ったプレーを見せた。
シーズン途中にはストイコビッチ、ビニッチが加入。1stステージ8位から巻き返しが期待されたが2ndステージは最下位となり年間順位は12チーム中11位と低迷した。
ジョルジーニョは熾烈な外国人枠争いがありながらもシーズンを通して活躍しリーグ戦38試合に出場し8ゴールを挙げた。最終節のサンフレッチェ広島戦もフル出場を果たし来季の活躍も期待されたが、このシーズンをもって名古屋グランパスを退団。同時に現役引退を表明した。
ジョルジーニョ(名古屋)の引退後と現在
ジョルジーニョは引退後、ブラジルに帰国。現在は故郷であるマリーリアに在住し事業を営んでいる。
ジョルジーニョは現役時代、パス一本で流れを変えられるゲームメーカーとして活躍した。在籍していた当時の名古屋グランパスはなかなか勝ち星に恵まれず、苦しいシーズンを送る事になった。
しかしJSLでは前述のようにチームの得点の半分をアシストするという驚異の記録を残した事からもジョルジーニョのラストパスから多くの得点が生まれた。
翌年に名将ベンゲル監督が就任し、ピクシーことストイコビッチが年間MVPに輝き名古屋は天皇杯優勝を飾るなど飛躍の年となった。
年齢的な問題もあったが、ジョルジーニョがもし翌年も残留していたらベンゲル監督の元で躍動し、タイトル獲得に貢献していたのではないだろうか。