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サントスの現役時代、?生い立ちやプレースタイルに迫る【第168回】

41歳まで現役を続けた鉄人・サントス。

チームの根幹を支えるボランチとして、鹿島アントラーズや清水エスパルスで活躍した。

その正確なパスや冷静なプレーはインテリジェンスに溢れており、守備面でもミドルサードで攻撃の芽を確実に詰む事が出来る、まさに中盤のスペシャリストとして君臨した。

サントスは決して目立つ選手ではなかったが、職人気質な選手であり、所属したどのチームでも高い評価を受け、その献身的なプレースタイルで数々のピンチを救った。

玄人好みのフットボーラー、鉄人サントスに迫る。

サントスのJリーグ入り前


サントスは1960年にブラジルのゴイアス州に生まれた。

4歳の時にサッカーを始め、その後は地元のアマチュアクラブでプレーを続ける。

17歳の時にゴイアスECのセレクションを受け、合格。

2年間ユースで学び、19歳の時にトップチームに昇格。

ゴイアスで6シーズンに渡ってプレー後、ノヴォリゾンチーノで1シーズンプレー。

1987年にはボタフォゴに加入。

ボタフォゴの21年振りのリーグ優勝と翌年の連覇に貢献した。この活躍を受け1991年にはブラジル代表にも選出されている。

その後リオデジャネイロ州選手権のカステロ・ブロンコで2シーズンプレーした。

1992年、住友金属(後の鹿島アントラーズ)でプレーしていたジーコに誘われて来日。鹿島アントラーズに入団する。

サントスのJリーグ入り後

サントスはJリーグ開幕戦となった1993年5月16日名古屋グランパスエイト戦で、Jリーグデビューを果たす。

この年の鹿島アントラーズの主力外国人はジーコ、アルシンド、サントスであったが、開幕戦からハットトリックを決めたジーコや得点ランキング上位を走るアルシンドとは対照的に、サントスは本田泰人をはじめとする守備陣と攻撃陣のバランスをとる舵取り役として重要な仕事を果たし、1stステージ優勝へ貢献。サントスは初代Jリーグベストイレブンに選出された。

鹿島の大黒柱であるジーコが怪我で不在時にはサントスがキャプテンを務めた。

時折、強烈なミドルシュートを叩き込むなど得点感覚の高さも見せ、初年度はリーグ戦8得点を挙げるなど守備だけではない所を印象付けた。

1995年シーズン途中に清水エスパルスへ移籍。

清水エスパルスでは大榎克己三浦泰年と連携し中盤の底の要としてチームを牽引。

リーグ戦だけでなく翌年のナビスコ杯でも主軸としてプレーを続け、清水エスパルスのナビスコ杯優勝に貢献。サントスはナビスコ杯最優秀選手賞を受賞した。

その後も既に年齢は30代後半に突入していたが、尽きる事のないスタミナと熟練された判断力を武器にエスパルスの不動のボランチとして活躍。

清水最後のシーズンとなった2000年もリーグ戦27試合に出場し4得点を記録。若返りを図るチーム事情もあり惜しまれながら清水を去った。

2001年はヴィッセル神戸でプレー。

神戸はこの年、サントスの他にも三浦知良、望月重良シジクレイといった選手を獲得するもリーグ戦では結果を残せず16チーム中12位に沈んだ。

サントスはこの時41歳となっていたが守備的MFとしてリーグ戦26試合に出場。
この41歳での出場記録は2009年に三浦知良が更新するまでJリーグ最年長出場記録だった。

このシーズンを持ってサントスは現役を退いた。

その2年後の2003年に関東2部リーグに所属したいたザスパ草津にコーチ兼任として復帰するも出場はリーグ戦6試合に留まっている。

サントスの引退後と現在

サントスは引退後、清水エスパルスやアルビレックス新潟のコーチを歴任。

現在はブラジルに帰国し、2017年から「7 de Abri」の監督に就任している。

もし私が歴代外国人Jリーガーベストイレブンを選出するとしたら、間違いなくサントスをボランチに置くだろう。

圧倒的に少ないミスと危険を察知する判断力で目に見えないピンチを幾度となく救ってきた鉄人・サントス。

彼と共にプレーした若き日の鹿島の本田泰人や清水の伊東輝悦は多くの事を学んだと思う。

サントスの献身的なプレーがあったからこそ、前線の選手が躍動出来たのだと思う。

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