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エムボマの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第321回】

1997年。Jリーグに新たな衝撃が走った。

青と黒のストライプのユニフォームをまとった無名の黒人選手が、超人的な身体能力で異彩を放ったのだ。

その選手の名はパトリック・エムボマ。通称「浪速の黒豹」。

長い脚と、抜群の跳躍力。トリッキーな足技と、ピッチのどこからでもゴールを狙える優れた得点感覚。それはいずれも日本人選手は持ち合わせていない天性のオプションだった。

優れた能力を持ち合わせながらも、フランスの地で埋もれ続けた男は、ようやく日本の地で才能を開花させ、Jリーグの舞台で大暴れをしたのだった。

エムボマのJリーグ入り前


エムボマは、1970年にカメルーン・リトラル州のドゥアラに生まれるが、エムボマが2歳の時に両親と共にフランスに移住している。

パリのスタッド・ドゥレストというクラブでプロ契約を結び、その後、フランスの名門であるパリ・サンジェルマンに移籍する。

しかしパリ・サンジェルマンでは思ったような活躍が出来なかった。2シーズン在籍するもリーグ戦試合出場は0に終わる。

エムボマは、その後、1992-1993年シーズンにフランス2部リーグのシャトールーにレンタル移籍するが、この年シャトールーは3部リーグに降格する。

1993ー1994年シーズンもシャトールーに残留し、3部リーグではあるが17ゴールを記録し、1994-1995年シーズンにパリ・サンジェルマンに復帰。

しかし、エムボマはまたしても活躍の場を与えられない。その間もレンヌへのレンタル移籍を経験し、再び1996-1997年シーズンにパリ・サンジェルマンへ復帰するが、サンジェルマンで挙げたゴールは僅かに2ゴールだった。

フランスとカメルーンの二重国籍を持つエムボマは、カメルーン代表を選択。1995年には、初めてカメルーン代表に選出されている。

その後、1997年にJリーグのガンバ大阪からのオファーが舞い込み、日本へ活躍の場を移す。

エムボマのJリーグ入り後

現役カメルーン代表という肩書で来日したエムボマだったが、日本ではほぼ無名の選手だった。

ガンバ大阪に入団したエムボマは、1997年4月12日の1stステージ第1節ベルマーレ平塚戦でJリーグデビューを飾る。この試合で、エムボマはさっそく、Jリーグ史上に残るであろうスーパーゴールを決めて見せる。

ペナルティエリア付近でボールを受けたエムボマは、ドリブルでDFを抜こうと試みるも、DFにカットされる。しかしエムボマは、長い脚でボールを奪い返すと、リフティングで相手数人を交わし、最後には強烈な左足でのボレーシュートを突き刺して見せた。このゴールは、圧倒的な身体能力と、しなやか身のこなしをもったエムボマだからこそ決めることができたゴールであった。

その後、各チームはエムボマの対策をし、徹底マークを強いるも、日本には対応できるDFは存在しなかった。日本代表のDFであった秋田豊は、「フランスワールドカップで対戦したどの選手よりもエムボマの方がインパクトがあった」と後年語っている。

その後もエムボマの勢いは止められず、数々のスーパーゴールを生み、加入1年目ながらリーグ戦28試合に出場し25ゴールを挙げ、ベストイレブンと、Jリーグ得点王に輝いている。

日本での活躍と同時に、カメルーン代表でも不動の地位を築き、背番号10を背負うと、1998年フランスワールドカップのアフリカ予選でもゴールを量産し、予選突破の原動力となった。

エムボマは、フランスワールドカップ出場時のインタビューで「子供のころからの夢が叶って幸せです。それと同時に、フランスサッカー界に『わたしは今もいる』と示せることに喜びを感じています」と、不遇の時代を過ごしたフランスへの熱い思いを語っている。

しかし、ワールドカップ本戦ではチーム事情から、不慣れなボランチのポジションでプレー。エムボマは守備と、前線への供給に追われ、高い身体能力を発揮する場面は限られた。

しかし、グループリーグ最終戦のチリ戦ではFWとして出場。それまでの鬱憤をはらすように、前線で動き回り、高い打点からのヘディングシュートで1ゴールを記録。しかし残念ながらカメルーン代表は1勝も挙げられずグループリーグで敗退している。

1998年もガンバ大阪でプレーするも、1998ー1999年シーズンの途中からイタリアのカリアリに移籍。 シーズンの半分だけのプレーであったが、7ゴールを記録し、初めてヨーロッパで実績らしい実績を残した。

2000年のシドニーオリンピックにはオーバーエイジ枠で出場し、カメルーン代表の起点となった。エムボマの活躍で、カメルーンは金メダルを獲得しエムボマはこの年のアフリカ最優秀選手にも選出された。

2000-2001年シーズンには、イタリアのパルマへ移籍。日本代表の中田英寿とともにプレーしリーグ戦5ゴールを挙げる。

2002年の日韓ワールドカップにも、カメルーン代表として出場。このワールドパップのキャンプ地である大分県中津江村は一躍有名になった。

ワールドカップでは、エトーと2トップを組む。しかしエムボマは怪我の影響で満足のいくプレーを見せることはできなかった。

2003年は東京ヴェルディからオファーを受け、再びJリーグに復帰。

ヴェルディでは、主に桜井直人と2トップを組み、1年目はリーグ戦13ゴールを挙げるもガンバ大阪時代ほどのインパクトは残せなかった。

2004年シーズン途中にはヴィッセル神戸へ移籍。ヴィッセルでは、播戸竜二平瀬智行と3トップを形成。2005年も神戸に残留し、三浦知良とのプレーを経験するが、膝の怪我の影響でリーグ戦4試合の途中出場に留まり、このシーズンを持って現役を引退することとなった。

エムボマの引退後と現在

エムボマは、35歳で現役を引退後、母国カメルーンをはじめとするアフリカ諸国での慈善活動に精を出している。

また、日本国内でのサッカーイベントやOB戦などにも多数参加。2002年ワールドカップで来日した中津江村でサッカー教室も開催した。

現在は、主にアフリカ出身選手の代理人業務を行い、自身の投資関連の会社で代表を務める傍ら、サッカー解説者としても活躍している。

Jリーグに大きな衝撃を与えた、浪速の黒豹、パトリック・エムボマ。ひょうきんな性格でも知られ、「ボマちゃん」という愛称で多くのJリーグファンに愛された。

Jリーグには、これまで数多くのワールドクラスの外国人選手がプレーしている。

しかし、エムボマほどサポーターに愛され、超人的な躍動感と突出した身体能力を持ち、Jリーグを盛り上げた選手を私は知らない。

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