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アレイニコフの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第212回】

1993年にガンバ大阪にやってきたMFアレイニコフは中盤の深い位置に位置し、長短のパスを織り交ぜながらビルドアップの中心となれる人物だった。

旧ソ連代表として78試合に出場し、UEFA欧州選手権準優勝、ワールドカップに2度出場した経歴をもつ。

1993年から1995年までガンバ大阪に在籍し、Jリーグで83試合に出場し14得点を挙げた。

まだボランチというポジションが日本に浸透していなかった時代に、アレイニコフは攻守に渡りまさにボランチのお手本としてJリーグの舞台でいぶし銀の活躍を見せた。

アレイニコフのJリーグ入り前


アレイニコフは1961年に旧ソビエト連邦に生まれた。

1981年、アレイニコフが20歳の時に母国のFCディナモ・ミンスクでプロキャリアをスタートさせた。

ミンスクでは入団1年目から出場の機会を掴み、2年目にソ連リーグ優勝のタイトルを獲得する。

1984年にソ連代表に選出。代表では後にガンバ大阪で共にプレーするFWプロタソフやDFツベイバと共にプレー。

1988年に開催されたUEFA欧州選手権ではイングランドやオランダのいるグループBを勝ち進む。グループリーグのイングランド戦でアレイニコフは貴重な先制ゴールを決め3-1の勝利に貢献した。ソ連代表は準決勝でイタリアを破り決勝に駒を進めるが、ファン・バステンやフリットのいるオランダに0-2で敗れ準優勝となった。

その後アレイニコフは9年間在籍したミンスクを離れ、1989年にイタリアのユヴェントスFCへ移籍。

ユヴェントスには1シーズンのみの在籍となったがUEFAカップとコッパ・イタリアを獲得した。

1990年に同じセリエAのUSレッチェへ移籍。レッチェではセントラルミッドフィルダーとして活躍し、アルゼンチン代表FWペドロ・パスクリやイタリア代表MFアントニオ・コンテと共にレッチェの攻撃を牽引した。

ソビエト代表としても1986年メキシコワールドカップには3試合出場しベスト16、1990年イタリアワールドカップにはグループリーグ全ての試合に出場したもののグループリーグで敗退している。

1993年、Jリーグのガンバ大阪からオファーを受けたアレイニコフは移籍に同意。NICOSシリーズから合流する。

アレイニコフのJリーグ入り後

ガンバ大阪に加入したアレイニコフは1993年8月4日NICOSシリーズ第3節浦和レッズ戦でJリーグデビューを飾る。

アレイニコフはガンバ大阪の中盤の深い位置でプレーし、現役ブルガリア代表MFメトコフと礒貝洋光と共に攻撃的なガンバのゲームメイクを担当した。

初年度はシーズン途中加入ながらリーグ戦15試合に出場。

2年目のシーズンは開幕戦のジェフ市原戦からスタメン出場を続ける。同じく元旧ソ連代表のFWプロタソフ、DFツベイバが加入しガンバ大阪の外国人は充実するが、なかなか勝ちきれない試合が続いた。

1995年は元オランダ代表FWヒルハウス、クロアチア人MFスクリーニャ、プロタソフ、ツベイバ、アレイニコフの5人の外国人選手が在籍し3枠の外国人枠を争う形となったが、アレイニコフのボランチでの仕事は他の選手では補う事が出来ずリーグ戦38試合に出場する活躍を見せた。

的確に攻撃の芽を摘みながらも、パスだけではなく積極的にミドルレンジから精度の高いシュートを放つなど得点力も見せこのシーズンは8得点を挙げた。

しかし同国のプロタソフと共にこのシーズンをもってガンバ大阪を退団。

アレイニコフはその後、スウェーデンのオデヴォルド、イタリアセリエDのコリリャーノ、アナーニでプレーし1997-1998シーズンをもって現役を引退した。

アレイニコフの引退後と現在

アレイニコフは引退後、母国で下位リーグやユースのクラブを指導。

2003年にはロシアプレミアリーグのFCモスクワの監督に就任したが成績不振により解任。

現在は母国で育成年代の指導にあたっている。

2015年には古巣であるユヴェントスOBの一員として来日。FWスキラッチやラバネッリ、トレゼゲらとともにユヴェントスレジェンドとして日本の九州レジェンドと親善試合を行った。

アレイニコフは母国のサッカー協会によって同国のゴールデンプレイヤー(過去50年間の最優秀選手)に選ばれる程、優れた選手だった。

Jリーグ創成期にプレーした外国人選手の中ではそれほど知名度は高くないが、豊富な経験に裏打ちされた職人気質なミスの少ないプレーは多くのJリーグファンを唸らせた。

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